こんにちは、よだかです。
最近『カウンター・エリート』を読みました。この本は、イーロン・マスクやピーター・ティールのようなトップ層が、なぜ既存の体制に抗う立場を取るのかを扱った一冊です。読み進める中で、「なぜ彼らは支持されるのか」という問いから、「そもそも人はなぜ他人に判断や責任を預けるのか」という点まで考えが広がりました。本記事では、本書の内容を整理しつつ、自分なりに見えた構造をまとめていきます。
1. この本は何を説明しているのか
『カウンター・エリート』は、ざっくり言うと「なぜ一部のトップエリートたちが、いまの主流な体制にわざわざ反発するのか」を扱った本でした。
ここでいうカウンター・エリートって、反権力の庶民とか、体制に押さえつけられている弱者みたいな話ではないんですよね。むしろ逆です。お金もある、影響力もある、発信力もある。社会の外にいるどころか、かなり上の方にいる人たちです。なのに、そういう人たちが既存の政治や官僚制や教育機関、あるいは「今の社会ってこういうものでしょ」という空気そのものに対して、かなり否定的な立場を取る。そこがまず面白いところでした。
本書の中では、イーロン・マスクやピーター・ティールのような人物が代表例としてよく出てきます。彼らはただの成功者ではなくて、成功している側なのに、今の体制をそのまま肯定しない。むしろ「今の仕組みはもうおかしいだろ」と言う側に立っている。そのねじれが、この本の主題なんだと思います。
読んでいて思ったのは、この本は単純に右とか左とか、保守とかリベラルとか、そういうラベルで片づけられる話をしていないんですよね。もちろんそういう文脈も出てくるんだけど、もっと根っこのところで、「既存の秩序を守りたい側」と「それを壊したい、あるいは組み替えたい側」の対立を見ている感じがありました。だから、普通の政治の分類だとちょっと説明しにくい人物たちが主役になってくる。
しかも、この人たちって単に目立ちたがってるだけにも見えないんですよ。今の社会の不具合を、わりとちゃんと突いてくる。教育は本当に機能しているのかとか、能力があってもそれを活かせる場所が十分にあるのかとか、制度は建前ほど公平ではないんじゃないかとか。そういう、みんな何となく感じていそうな違和感を、かなりはっきりした言葉で言う。だから厄介だし、同時に支持も集めるんだろうなと思いました。
読んだあとにまず残ったのは、カウンター・エリートって単なる変わった金持ちとか、炎上上等の目立ちたがりではなくて、今の時代の構造そのものから出てきた存在なんだろうな、ということです。じゃあ、なぜそういう人たちが支持されるのか。次はそこを考えていきます。
2. なぜ彼らは支持されるのか
カウンター・エリートが面白いのは、単に金持ちとか有名人だから目立っているわけではないところです。いや、もちろんその要素もあるんだけど、それだけなら「ふーん、すごい人だね」で終わるはず。でも、実際にはそうならない。むしろ、「なんかこの人の言ってること、わかる気がする」と感じる人が一定数いる。ここが重要なんだと思います。
たぶん多くの人は、今の社会に対してうっすらした違和感を持っているんじゃないでしょうか。
努力すれば報われるって言うけど、そんなに単純でもない。
多様性が大事って言うけど、実際に評価される人や通用する人の型はかなり狭い。
学べば未来が開けるって言うけど、その学び自体がかなり怪しくなっている。
そういう「いや、建前はそうなんだけどさ……」みたいな感覚。
で、普通はそこまでなんですよ。なんとなく嫌だな、なんか変だな、でも何が変なのかうまく言えない。言葉にならない違和感のまま止まる。たぶん多くの人はそこで終わるんだと思います。忙しいし、そこから先をわざわざ考えるのもしんどいし。
そこに出てくるのがカウンター・エリートです。
彼らは、そのぼんやりした違和感に対して、かなりはっきりした言葉を与える。
「制度が壊れている」
「既存のエリートが腐っている」
「このままではダメだ」
みたいな感じで、輪郭を与えてくる。
これ、わりと強いんですよね。
人って、自分の中でモヤモヤしていたものに名前がつくと、一気に「わかってもらえた」感じが出るので。ゼロから教え込まれたというより、「あ、それが言いたかったんだよ」みたいな感覚に近いのかもしれません。
たぶん彼らが支持されるのは、単に派手だからでも、過激だからでもなくて、そういう“言語化能力”があるからなんだと思います。しかも、ただ頭がいいだけじゃなくて、制度の中身もわかっている側の人間がそれを言うから、余計に説得力が出る。外野が文句を言っている感じではなく、「中を知ってる人が言ってるなら、やっぱり何かおかしいのかもな」と見えてしまうわけです。
あと、ここで厄介なのは、彼らの主張が全部デタラメというわけでもないことです。むしろ一部は普通に当たっている気がする。教育の問題とか、格差の固定化とか、既存制度の閉塞感とか、そのへんに関しては「まあ、わかる」と思ってしまうところがある。だからこそ単純に否定しづらいし、ただの扇動とも言い切れない。
要するに、カウンター・エリートは人々の不満をゼロから作り出しているというより、もともとあった違和感を見える形にしているんですよね。そこがたぶん強い。
では、その不満って本当にそれぞれ別々のものなんでしょうか。次はそこを少し考えてみたいと思います。
3. バラバラに見える不満は、本当に別物なのか
ここまで考えていて気になったのは、カウンター・エリートが受け止めている不満って、本当に全部別々のものなんだろうか、ということでした。
ぱっと見だと、不満の種類はいくらでもあります。
景気がしんどい。
格差がきつい。
教育が機能していない気がする。
頑張っても報われる感じがしない。
多様性と言いながら、実際に通用する人間の型はかなり狭い。
上にいる人たちだけがルールを知っていて、うまく立ち回っているように見える。
こういうのって、一つひとつは別の話にも見えるんですよね。
でも、読んでいるうちに、根っこは案外同じなのかもしれないと思えてきました。
要するに、みんなそれぞれ違う角度から、
「既存のシステムって、もうそんなに信用できなくない?」
という感覚に触れているのではないか、ということです。
勉強すれば上に行ける。
努力すれば報われる。
制度は中立で、公正に動いている。
能力があればどこかで活かせる。
昔はこういう前提が、少なくとも建前としては今よりもう少し信じられていた気がします。ところが今は、その全部にじわじわヒビが入っているように見える。
学歴があっても安心ではない。
ちゃんと働いても将来が見えにくい。
立派なことを言う組織ほど信用できないこともある。
しかもネットを開けば、自分よりうまくやっている人、ルールを知っている人、うまく得をしている人が嫌でも視界に入ってくる。そりゃ不公平感もたまりやすくなる。
だから、不満がバラバラに存在しているというより、もともと一つの不信があって、それがいろんな形で表面化しているだけなのかもしれません。
この見方を取ると、カウンター・エリートの強さも少しわかります。彼らは散らかった不満を無理やり一つにまとめているというより、みんなが薄々感じていた「これ、根っこ同じじゃない?」を、はっきり言葉にしている。そこに「わかる」が発生する。新しい不満を植えつけているというより、名前を与えている感じに近いのかもしれません。
もちろん、何でもかんでも一つの原因にまとめればいいわけではないです。経済の問題と、教育の問題と、文化的な息苦しさは、それぞれ別の動き方もする。ただ、それでもなお、今の時代にはそれらを一つの不信へ収束させやすい空気がある。そこはかなり大きい気がしました。
じゃあ、その不信はどこから来るのか。次は、多様性や能力発揮の話とあわせて、そのへんをもう少し見ていきます。
4. 多様性と言いながら、能力を発揮する場所がない社会
今の社会って、表向きはかなりやさしいことを言うんですよね。
多様性が大事です。
自分らしさを尊重しましょう。
いろんな生き方があっていいです。
たいへん結構。言っていること自体は、たぶん間違っていない。
ただ、そこで毎回ちょっと引っかかるんです。
じゃあ、その「いろんな人」が実際に力を発揮できる場所は、どれくらい用意されているのか、と。
ここが案外しんどい。
きれいなことは言う。
でも通用する型はそんなに増えていない。
受け皿もそこまで広くない。
「あなたの個性を大切に」と言いながら、実際には扱いやすく、説明しやすく、既存の仕組みにきれいにはまる人の方が通しやすい。まあ、そうなるよなという感じもあります。組織からしたら、その方が楽なので。
つまり、多様性を尊重しているように見せつつ、現実には「ちゃんと読み取りやすい能力」「既存ルールの中で換金しやすい強み」「周囲が安心して処理できる個性」が優遇されやすい。あまりにも露骨に言うと嫌な感じになるから、そこはふんわり包むわけですが、構造としてはそんなに甘くない。
教育機関の話も、この文脈でかなり気になりました。
本来、大学なり学校なりって、可能性を広げる装置であってほしいじゃないですか。向いている方向を見つけたり、能力を伸ばしたり、まだ形になっていないものを育てたり。そういう役割を期待したくなる。
でも現実には、選別機能とか資格付与機能の方が前に出すぎていて、可能性を広げるというより、むしろ「どのレーンに乗るか」を早めに決める装置になっているようにも見える。しかも、そのレーン自体が昔ほど盤石でもない。頑張って通った先が、別にそこまで保証されていないこともある。なかなか味わい深い仕組みです。
そうなると結局どうなるか。
能力があるかどうかだけでは足りないんですよね。
その能力を発揮できる場所を見つける力まで要る。
見つからないなら、自分で作る力まで求められる。
で、それができなかったら「あなたに合う場所がまだ見つかっていないだけです」とでも言って、お上品に処理される。便利な言い回しだなと思います。
いや、もちろん現実にはそういう面もあるんでしょう。自分に合う場所を探すこと自体は大事だし、場所を作れる人は強い。でも、それを言えば言うほど、「能力を活かすための追加能力」まで個人に背負わせているだけでは、という気もしてくる。
多様性を掲げる社会が悪いというより、多様性という言葉が、受け皿の不足を見えにくくする免罪符になっている場面がある。そこがちょっと嫌なんですよね。
建前としては開かれている。
でも実際には、門の位置がわかりにくいし、そもそも門自体がそんなに多くない。
それで「自由に選べます」と言われても、まあ、そうですか……となる。
こういうミスマッチが積み重なると、「この社会、口ではいろいろ言うけど、実際にはそんなに公正でも親切でもないのでは」という不信が育っていくのもわかる気がします。カウンター・エリートが刺さる土壌って、そのへんにもあるんだろうなと思いました。
5. 人はなぜ「自分で判断しない」ことを選ぶのか
ここまで考えていて気になったのは、カウンター・エリートが支持される理由を、単に「言っていることがわかりやすいから」で済ませていいのか、という点でした。たしかにそれもあると思います。ただ、それだけでは少し弱い。もっと根本には、判断と責任の問題がある気がします。
人は基本的に、自分で全面的な責任を負いたがらない。これは責めているというより、かなり自然なことだと思います。世界は複雑だし、未来は不確実だし、社会の仕組みなんて個人が見通せるものではない。そういう状況で、自分の認識が正しいのか、自分の選択が妥当なのかを常に自分で引き受け続けるのは重い。普通にしんどい。
だからこそ、人は「自分の感じている違和感を、もっと強い言葉で、もっとはっきり言ってくれる存在」に惹かれるのだと思います。しかも、その人がただ感情的に騒ぐだけではなく、賢そうに見え、仕組みも知っていそうで、なおかつ前に出て対立を引き受けてくれるなら、なおさら信頼しやすい。
重要なのは、ここで預けられているのが単なる感情ではないということです。
預けられているのは、認識の責任です。
「この社会は本当におかしいのか」
「何が壊れているのか」
「どこに向かうべきなのか」
そうした判断の重さを、自分ではなく誰かに背負わせる。支持というのは、共感であると同時に、ある種の責任移譲でもあるのだと思います。
この意味で、カウンター・エリートは単なる代弁者ではありません。彼らは、不満を言葉にするだけでなく、その不満に方向を与える存在でもある。敵と味方を整理し、曖昧な違和感に輪郭を与え、進むべき方向を提示する。その働きがあるからこそ、人は「自分で考えたつもり」でいながら、実際にはかなり大きな部分を誰かの言葉に依存することになる。
しかもネット環境では、この構図がさらに強くなる。
人は膨大な情報に触れているようでいて、その全部を咀嚼できるわけではない。
結果として、多くの人は自分の世界観を一から組み立てるのではなく、すでに整えられたフレームを受け取る。どの現象を重要とみなすか、何を不公正と呼ぶか、誰を信用し、誰を疑うか。その基準そのものが、かなり外部から供給されている。
そこで強い発信者が果たす役割は大きい。彼らは事実を並べるだけではない。事実に意味を与える。バラバラの出来事を一つの物語として接続し、「だからこの社会はこうなっている」と示す。この編集能力があるから、支持を集める。そして一度その物語に乗ると、人は自分の判断を手放している感覚を持たないまま、かなり深く依存していく。
もちろん、それがすべて悪いという話ではありません。人間は誰しも、自力でゼロから世界を理解できるわけではない。何らかのフレームに頼ること自体は避けられない。ただ、そこで見えてくるのは、支持という行為の中には、かなり高い確率で「自分で引き受けたくない認識責任を誰かに預ける」という側面が含まれている、ということです。
たぶん大衆は、単に強い言葉を求めているのではない。
自分の代わりに断定してくれる人、
自分の代わりに敵を指さしてくれる人、
自分の代わりに対立の前面に立ってくれる人を求めている。
だからこそ、カウンター・エリートは魅力的に映る。
ただし、ここで一つ区別しておきたいことがあります。
責任を負っているように見えることと、実際に責任を負うことは同じではない。
断言すること、炎上を恐れないこと、対立的な言葉を使うことは、責任を引き受けているように見せる効果を持つ。しかし、制度を壊した後に何を作るのか、失敗したときにどこまで引き受けるのかという話になると、そこは別問題です。
この点を考え始めると、カウンター・エリートは本当に破壊者なのか、それとも別の秩序への再編過程の一部なのか、という論点が出てきます。次はそこを見ていきます。
6. カウンター・エリートは破壊者か、それとも再構成の一部か
ここまで考えてきて、最終的にいちばん気になったのはこの点でした。
カウンター・エリートは、単に既存秩序を壊す存在なのか。それとも、壊すことを通じて次の秩序への移行を担っているのか。
本書の中でも、彼らは基本的に現体制への強い不信や敵意を持つ側として描かれています。官僚制、既存政党、教育機関、メディア、専門家支配。そうしたものに対して「もう機能していない」「欺瞞的だ」「旧時代の遺物だ」と切り込んでいく。その姿だけを見れば、破壊者と呼ぶのが自然です。
実際、短期的に見ればそう見えるはずです。
既存のルールを傷つける。
正統性を削る。
制度への信頼をさらに下げる。
既成のプレイヤーを引きずり下ろす。
秩序維持の側から見れば、迷惑以外の何物でもない。社会を不安定化させる装置にしか見えないでしょう。
ただ、ここで思うのは、破壊と再構成はきれいに分けられるものではない、ということです。むしろ多くの場合、再構成は破壊の形でしか始まらない。古い秩序の正統性が傷つき、これまでの前提が揺らぎ、制度に寄りかかっていたものが崩れ始めて、そこではじめて次の形が生まれる余地が出てくる。
だから、「破壊者か、それとも再構成の担い手か」という問い自体、少し罠がある気がします。短い時間軸で見れば、たいていの再構成は破壊に見えるからです。
旧秩序の側から見れば、既存のルールを壊すものは全部破壊です。
新秩序の側から後から振り返れば、それは必要な解体だったという話になる。
この二つは、観測地点が違うだけで、同じ現象を指していることも多い。
そう考えると、カウンター・エリートという存在も、単なる体制の外部ではなく、システムが自らの硬直を崩すために内部から生み出している一種の異物として見えてきます。もっと露骨に言えば、社会システムには、自分の不具合を自分で告発し、時には自分を傷つけながら更新していく機構が組み込まれているのではないか、ということです。
生き物にアポトーシスがあるように、システムにも自己否定の回路がある。
古くなったもの、詰まりを生んでいるもの、環境変化に適応できなくなったものを、そのまま抱え込んでいては全体が先に死ぬ。だから内部から否定が生まれる。批判が生まれる。破壊衝動が生まれる。そういう見方をすると、カウンター・エリートもまた再構成システムの一部として理解できる気がします。
もちろん、これは彼らを美化する話ではありません。
ここで重要なのは、再構成に資する可能性があることと、実際によりよい秩序を作れることは別だという点です。
破壊はできる。正統性も削れる。既存制度の腐敗や停滞も暴ける。
だが、その先に本当に新しい受け皿や持続可能なルールを作れるのかとなると、話は一気に難しくなる。
ここでよくあるのは、破壊の言語だけが先行することです。
既存体制は終わっている。
専門家は信用できない。
大学は機能していない。
官僚制は腐っている。
それ自体は、場合によってはかなり正しい。問題は、その先です。
壊した後に何を置くのか。
どういう制度で配分し、どういう正統性で支え、誰がコストを負うのか。
この設計の段階に入ると、途端に難度が跳ね上がる。
なぜなら、批判は局所的で済むけれど、秩序は全体を支えなければならないからです。
既存制度のある一点の腐敗を暴くことと、代替制度を安定運用することは、まるで別の能力を要求する。
ここを飛ばして「壊せばなんとかなる」と考えるなら、それはただの破壊です。
逆に、破壊を通じて新しい配分原理や評価軸や制度設計に接続できるなら、それは再構成の一部と言える。
ただし、現時点でそのどちらかを断定するのは難しい。
むしろ断定しない方が自然です。
いま起きていることは、明らかに既存秩序への侵食ではある。
その侵食が次の秩序形成につながるのか、それとも単に正統性を削り続けるだけなのかは、まだ結果が出ていない。
破壊であることは比較的見えやすい。
再構成の一部かどうかは、一定の時間が経たないと判定できない。
だから、自分としてはいまの段階ではこう整理しています。
カウンター・エリートは、短期的には破壊者として振る舞っている。
ただ、その破壊が長期的に見て再構成の一部になる可能性はある。
しかし、それはまだ結果が出ていない以上、断定できない。
言い換えれば、「破壊であるが、再構成の一部かどうかはまだ分からない」というのがいちばん正確な位置取りだと思います。
そして、この見方に立つと、最初に抱いていた「この問題は本質的に解決不能ではないか」という感覚にもつながってきます。
なぜなら、社会は完成品ではないからです。
秩序ができる。
その秩序が詰まりを生む。
そこに反発が生まれる。
反発が秩序を削る。
削られた先で、また別の秩序が作られる。
その繰り返しが続いていく。
もしそうなら、カウンター・エリートは例外的な異常現象ではなく、システムが自分を更新するときに周期的に現れる機能の一つなのかもしれません。
だとすれば、彼らを完全な外部として見るのは少しズレている。
むしろ秩序の内部から生まれ、秩序を傷つけ、結果として秩序を更新するかもしれない存在。
そういう、かなり厄介で、しかしおそらく不可避な位置にいるのだと思います。
では、こうした本を読んだうえで、自分はどこに立つのか。
最後にその点を整理して終わります。
7. この本を読んで自分がどこに立つか
ここまであれこれ考えてきたのですが、正直に言うと、自分は大衆の側の心理にはそこまで強い関心がありません。
もちろん、なぜ人がカウンター・エリートに惹かれるのかはわかる。
既存の仕組みに対する違和感を言葉にしてくれる。
自分の代わりに前に出てくれる。
断定してくれる。
敵を示してくれる。
そういう存在が魅力的に見えるのは自然だと思います。
ただ、自分自身はそこにあまり乗りたいタイプではないんですよね。
誰かに判断を預けたいというより、自分で引き受けたい。
自分で考えて、自分で選んで、その結果もなるべく自分で持ちたい。
もちろん全部を完全に自力でやれるわけではないし、他人の言葉やフレームも普通に借ります。でも、最後のところは自分で持っていたい。そういう感覚の方が強いです。
だからこの本も、「どちら側につくか」というより、「今こういう構造が立ち上がっているのか」と一歩引いて見る感じで読んでいました。カウンター・エリートに共感するかどうかより、なぜそういう存在が出てきて、なぜ支持されるのか。その背景に何があるのか。そちらの方が気になった。
その意味では、この本は特定の人物を好きになるための本というより、今の社会の不信や停滞や再編の気配を考えるための本として面白かったです。
しかも、読んで終わりではなく、「じゃあ自分はどういう立ち位置で物を見るのか」まで返ってくる。そこが良かった。
今回、自分なりに整理してみて見えてきたのは、カウンター・エリートとは単なる破壊者でも、単なる救世主でもない、ということでした。彼らは、既存システムへの根本的不信を言語化し、それを方向づける存在として支持されている。しかも、その現象自体もまた、今の社会構造や情報環境からかなり自然に生じている。
そう考えると、結局大事なのは、強い言葉に乗ることより、自分がどこまでその言葉を引き受けるのかを見失わないことなのかもしれません。
少なくとも自分は、そこをなるべく他人任せにしない側でいたいと思います。