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『ババヤガの夜』が“良作なのに惜しい”理由を言語化する

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こんにちは、よだかです。
ババヤガの夜(著・王谷晶)を読了したので、感想をまとめます。

本作はざっくり言うと、"ヤクザの一人娘の用心棒役として雇われたケンカ大好きなおねーちゃん(新道依子)"が、その一人娘(尚子)と交流を深めていく過程を描いた物語です。
暴力性の強い描写が生むカタルシスが前面に出た作品ではありますが、それだけでなく、**キャラクター同士の「名前のない関係性」**にも強いテーマ性を感じました。

読み終えて残ったのは、暴力の手触りよりも、ふたりの間に最後まで名前がつかなかった関係の感触でした。

読了後の熱が冷めないうちに勢いで感想を書いていきます。

今回読んだ作品はこちら。
ババヤガの夜(Amazon)
※暴力描写がかなり直接的なので苦手な人は注意

1. エンタメとしては成立している、だからこそ評価が難しい

ババヤガの夜は、まず前提としてきちんと読める作品だと思う。テンポは良いし、物語の駆動力もはっきりしている。暴力描写の強度は高いが、それが作品の方向性と噛み合っているので、読みづらさや拒否感が先に立つこともない。少なくとも「退屈だからページを閉じる」タイプの小説ではない。

だからこそ、この作品の評価は少しややこしい。
明確に言えるのは、絶対に駄作ではないということだ。一方で、読み終えたあとに残る感触は「満足した」よりも「惜しい」に近い。この「惜しい」という感想は、完成度が低い作品には出てこない。むしろ、一定以上の完成度があり、なおかつ“もう一段上に行けた可能性”を感じさせるからこそ生まれる感情だと思う。

エンタメとして割り切って読むなら、この作品は十分に満足できる。わかりやすい構図、強度のある描写、明確な終着点。商業作品として求められる要素は、かなり誠実に満たしているように見える。実際、多くの読者にとっては「面白かった」で終わる作品だろうし、それは正しい受け取り方だと思う。

ただ、個人的にはそこで終われなかった。
読み進めるうちに、この物語にはもう少し踏み込めた余地があったのではないか、という感覚が拭えなかったからだ。それは単に「もっと過激にしてほしかった」とか、「説明が足りない」といった話ではない。この作品が選び取らなかった方向、あえて切り落とした部分の輪郭が、はっきり見えてしまったことによる違和感に近い。

この先では、その違和感の正体を、暴力表現と関係性という二つの軸から整理していきたい。
評価を下すためではなく、なぜ「惜しい」と感じたのかを、自分なりに言語化するために。

2. 本作の暴力描写は、明確に自覚された強度を持っている

ババヤガの夜を読んでまず印象に残るのは、やはり暴力描写の強さだと思う。殴る、殴られる、壊す、壊れる。そうした行為が、比喩や省略ではなく、かなり直接的な手触りをもって描かれている。痛みや衝撃が、物語上の演出というよりも、身体的な出来事として書かれている点ははっきりしている。

ただ、この暴力性は衝動的に書かれたものではない。後書きで筆者自身が言及している通り、本作における暴力は「わかってやっている」ものだ。過激さそのものを無自覚に積み上げているのではなく、どの程度の強度で、どの場面に置くのかが、かなり意識的に選ばれているように感じる。

そのため、暴力描写が物語から浮くことはない。
世界観やキャラクターの在り方と齟齬を起こさず、物語を前に進めるための駆動力として機能している。読んでいて「必要以上に煽られている」という感覚よりも、「この話では、ここまで書く必要がある」という納得感の方が勝つ。

一方で、この“自覚された暴力”は、安全な位置にも収まっている。
強度は高いが、無制限ではない。読者が耐えられる範囲、そして物語が破綻しない範囲に、きちんと制御されている。その制御は巧みだが、同時に、後になって振り返ると「ここで止めた」という判断の跡も見えてくる。

この点は、作品の欠点というより、選択の問題だと思う。
暴力を無秩序に解放すれば、より剥き出しの表現にはなったかもしれないが、その代わりに読み手を選びすぎる作品になった可能性も高い。本作はそこには踏み込まず、商品として成立する線をきちんと守っている。

だからこそ、この暴力描写は印象に残ると同時に、どこか「整って」もいる。
次の章では、その暴力がもたらすカタルシスが、何によって成立しているのか――特に「誰に向けられているか」という点から、もう少し掘り下げてみたい。

3. 暴力のカタルシスは、量ではなく「殴られる相手」に依存する

暴力描写が読者にカタルシスを与えるかどうかは、描写の激しさや回数だけで決まるものではない。どれだけ手数を重ねても、読み手の感情が動かなければ、それは単なる消費に近づいてしまう。重要なのは、誰が、誰に向けて振るわれている暴力なのかという点だと思う。

この作品における暴力が比較的素直に受け取れるのは、殴られる側が「殴られてもよい存在」としてきちんと立ち上げられているからだ。理不尽さや卑劣さ、権力勾配の中で安全圏にいること。そうした要素が積み重なり、読者の側に「この相手には怒りを向けてもいい」という感情的な足場が用意されている。

逆に言えば、ここが曖昧になると、暴力は途端に居心地の悪いものになる。悪役としての性質が弱かったり、単なる障害物として処理された存在に暴力が向けられると、そこに快感は生まれにくい。読者は暴力そのものを見るのではなく、暴力がどのような構造に向けられているかを無意識に見ている。

その意味で、本作における暴力の配置は、作品全体を通してかなり計算されている。殴られる相手は、個人的な憎しみの対象であると同時に、より大きな構造の象徴でもある。だから一発一発の暴力が、単なるアクションではなく、抑圧への反撃として機能する。

ただし、この構造には限界もある。
物語が進み、舞台が変わるにつれて、「新たに殴っていい相手」を成立させることは難しくなっていく。暴力の対象が更新されないまま手数だけを増やせば、カタルシスは薄まり、くどさだけが残るだろう。

この点が、後半に向けて暴力描写が慎重になっていく理由の一つだと思う。暴力性そのものを抑えたというよりも、殴るに値する相手を安易に増やさなかった。それは作品の品位を守る選択でもあり、同時に、次の展開を縛る選択でもあった。

次の章では、その制約の中で、物語が「逃避行」という段階に入った際、なぜ暴力が前面に出てこなくなったのか――その判断が持つ意味を整理してみたい。

4. 逃避行パートを描かなかった判断は、商業的には誠実

物語の大枠として見ると、終盤に向けて「逃げる」局面に入ってからの描写はかなり潔い。逃避行そのものは長くは続かず、生活の細部が積み上げられるというより、いくつかの要点を経てラストに向かう。読後に「そこ、もう少し読みたかったな」と感じる余地が残るのは、この省略の仕方がはっきりしているからだと思う。

ただ、この省略は単なる端折りではなく、かなり意識的な線引きに見える。
逃避行を丁寧に描こうとすると、物語は必然的に“別の作品”になる。移動、金、寝場所、食事、疲労、気温、他者との接触。そうした生活の要素が前面に出てきて、暴力の強度や物語のテンポは変質する。これは良し悪しではなく、作風の問題だ。

さらに言えば、逃避行を厚く描けば描くほど、作者は「新しい局面」を用意し続けなければならない。暴力を続けるなら、殴るに値する相手や危機を継続的に成立させる必要があるし、逆に暴力を抑えるなら、今度は関係性や生活描写で読ませる設計が必要になる。どちらも難易度が高い。中途半端になると、くどさか停滞のどちらかに傾きやすい。

その意味で、本作が逃避行を長く引っ張らず、終着点へ向けて収束させた判断は、商業作品としてはかなり合理的だと思う。読者が離脱しやすいゾーンを回避し、作品の核である強度(暴力や関係性の緊張)を薄めないまま、物語をきれいに着地させる。少なくとも「読ませる」という観点では、正しい判断に見える。

ただ、この正しさには代償もある。
逃避行を描かないことで、読者は“ふたりが逃げた後に何が起きるか”を体験できない。言い換えると、逃走後の時間が物語として回収されないまま、ラストの場面へと移行する。その潔さが、ある読者にとっては余韻として働き、別の読者にとっては欠落感として残る。

自分の場合は、後者に近かった。
省略の判断が合理的であることは理解できるし、むしろ納得もできる。けれど、だからこそ「もし、もう一段踏み込んでいたらどうなっていたんだろう」という欲が残った。この作品の“正しさ”が見えるからこそ、別の可能性も同時に想像できてしまう。

次の章では、その「もう一段」を期待してしまった理由――つまり、自分がどこに追加の熱量を求めていたのかを、比喩も含めて整理してみたい。

5. それでも「もう一段」を期待してしまった理由

逃避行パートが省略された判断を理解した上で、それでもなお「もう一段あってもよかったのでは」と感じてしまうのは、単に物足りなさを覚えたからではない。この作品が、その一段を受け止められるだけの準備を、すでに整えていたように見えたからだ。

物語の中盤で大きな山が訪れ、そこで一度、感情的なピークを迎える。普通であれば、そこがクライマックスで、そのまま余韻を残して終わる構成でもおかしくない。実際、本作はその選択をしている。ただ、読み手としては、その山を越えた先に、別の質の山があり得たのではないかという感覚が残る。

音楽で言えば、「ここがサビだ」と思った場所が実は助走で、その後にもう一段、本当のサビが来る構造に近い。最初の盛り上がりで作品の方向性を理解し、二度目の盛り上がりで、その意味が反転したり、深化したりする。そうした構造は、強く印象に残る体験を生むことがある。

この作品の場合、その「もう一段」は、単なる事件の追加や、暴力描写の増量ではないはずだ。逃げた後でも暴力は描けただろうし、むしろ逃避行という状況だからこそ、暴力の質は変わった可能性がある。組織に属していた頃の暴力と、生き延びるために選ばざるを得ない暴力。その違いが描かれれば、主人公の在り方や、ふたりの関係性も別の角度から照らされたかもしれない。

もちろん、これは読み手側の欲だ。
その一段を描けば、作品は重くなり、読む側を強く選ぶものになった可能性が高い。だから作者が踏み込まなかった判断も理解できる。それでもなお期待してしまうのは、この物語が、すでに安全に終わるだけの話ではなくなっていたからだと思う。

「もう一段」を想像させてしまうこと自体が、この作品の強さでもある。
何も見えなければ、期待も生まれない。あらかじめ用意された着地点に、きれいに収まって終わるだけなら、ここまで考え込むこともなかっただろう。

次の章では、そうした期待の正体が、実は暴力そのものではなく、別の要素――この作品で静かに立ち上がっていた「関係性」に向いていたことについて書いていきたい。

6. この作品で本当に印象に残ったのは、暴力ではなかった

ここまで暴力表現について多く書いてきたが、読み終えて時間が経つにつれ、記憶に残り続けているのは暴力の場面そのものではなかった。殴った回数や流血の描写ではなく、ふたりが並んで存在していた時間の感触の方が、後からじわじわと浮かび上がってくる。

ババヤガの夜は、確かに暴力性の強い作品だ。けれど、その暴力は物語を成立させるための強い推進力である一方で、読み手の記憶を最終的に支配するものではない。むしろ、暴力によって切り開かれた空白の中に、何が残っていたかの方が重要だったように思う。

具体的に言えば、ふたりの間に明確な関係性の名前が与えられないまま、物語が進んでいく点だ。恋人でも、姉妹でも、親子でもない。ただ一緒にいる、という状態。その曖昧さが、不思議と不安よりも心地よさとして残る。読んでいる最中は気づかなくても、後から振り返ると、そこがこの作品の重心だったのではないかと思えてくる。

暴力は分かりやすい。強度も、意味も、即座に伝わる。
一方で、この「関係性」は非常に静かだ。説明されることも、定義されることもない。ただ、積み重ねられた行動や距離感の中で、少しずつ形を持っていく。だからこそ、読み手の側に解釈の余地が残される。

結果として、暴力は物語を駆動させ、関係性は物語を記憶に残す。
この二つの役割分担が、かなり明確に設計されているように感じた。もし暴力だけの作品であれば、読み終えた後にここまで考え込むことはなかっただろう。

次の章では、この「名前のない関係性」が、なぜこれほど心地よく感じられたのか、その理由をもう少し具体的に掘り下げてみたい。

7. 名前のない関係性がもたらす、不思議な心地よさ

この作品におけるふたりの関係性は、最後まで明確に名付けられない。
読んでいる途中で、「これは恋愛なのか」「擬似的な家族なのか」「依存なのか」と考えたくなる瞬間は何度もあるが、どの言葉もしっくりとは来ない。物語の側も、それを積極的に説明しようとはしない。

それにもかかわらず、関係性が不安定に感じられることはほとんどない。
むしろ逆で、この名前のなさが、妙に居心地の良いものとして作用しているように思える。ラベルが貼られていないからこそ、読者は「どういう関係なのか」を判断し続ける必要がなく、ただふたりの振る舞いや距離感を、そのまま受け取ることができる。

多くの物語では、関係性に名前が与えられた瞬間から、その関係に期待される振る舞いが固定されてしまう。恋人ならこう、家族ならこう、という無言の前提が立ち上がり、読者の視線もそこに引っ張られる。だが本作では、その前提が意図的に外されている。だから、ふたりの間に生まれる感情や行動が、型にはまらずに済んでいる。

この心地よさは、「女二人」という組み合わせによって、より強調されているようにも感じる。そこに典型的な役割分担や力関係を読み取りにくいからこそ、関係性が一方向に回収されない。守る/守られる、支配する/される、といった構図が成立しそうで成立しきらない。その揺らぎが、物語に独特の呼吸を与えている。

ババヤガの夜は、この曖昧さを不安定さとしてではなく、余白として提示している。読者は、その余白を埋めることもできるし、あえて埋めずに眺めることもできる。どちらの読み方も許されている感じがある。

次の章では、この「名前のない関係性」が成立している理由を、もう一段踏み込んで考えてみたい。なぜこの作品では、関係性に名前がなくても崩れないのか。その鍵は、キャラクターの名付け方そのものにあるように思える。

8. 名付けられたキャラクター同士だから、関係性に名前が要らない

この作品で関係性が曖昧なまま成立している理由は、ふたりのキャラクターそのものが、すでに十分に名付けられているからだと思う。名前という記号だけでなく、性格や身体性、過去や行動原理が、物語の中でしっかり輪郭を持っている。だからこそ、その間に生まれる関係に、追加のラベルを貼る必要がない。

後書きで筆者が「名付け」について触れている点も、ここに直結している。
キャラクターをどう名付けるか、あるいはどう呼ばせるかという選択は、単なる設定ではなく、物語の重心をどこに置くかという宣言でもある。本作では、キャラクターは明確に立てられている一方で、関係性の定義は意図的に後景に退けられている。

多くの作品では、この逆が起きがちだ。
キャラクターの輪郭が弱い場合、関係性に名前を与えることで物語を成立させる。恋人、親子、師弟、といったラベルが、人物の説明を肩代わりする。しかし本作では、キャラクターが自立しているため、関係性が説明を担う必要がない。その結果、関係性は「定義されないもの」として残される。

この構造があるからこそ、読者はふたりを個別の存在として見続けることができる。
関係性に名前がついた瞬間、視線は「関係」に引っ張られ、「個」よりも「型」を見るようになる。だが、名前がないままなら、視線は常にキャラクター本人に戻ってくる。何を考え、どう振る舞い、どんな距離を取るのか。その一つ一つが、関係性そのものを形作っていく。

ババヤガの夜は、キャラクターを立てることで、関係性を曖昧にするという選択をしている。これは、読み手にとっては少し不親切でもあるが、その分、自由度の高い読みを可能にしている。関係に名前を与えないことで、読者の解釈を縛らない。その態度が、この作品の静かな強度になっているように感じる。

次の章では、こうした設計が「キャラクターを立てるか、関係性を立てるか」という創作上の分岐と、どのようにつながっているのかを整理してみたい。

9. キャラクターを立てるか、関係性を立てるかという選択

ここまで見てきたように、本作は一貫してキャラクターを立てることを選んでいる。人物の身体性、振る舞い、言葉遣い、判断の癖。そうした要素が積み重なり、キャラクターは自立した存在として読者の前に立ち上がる。その結果、関係性は後から「生まれてくるもの」として扱われ、あらかじめ定義されることがない。

これは創作上の明確な選択だと思う。
物語には大きく分けて、キャラクターを軸に進むタイプと、関係性を軸に進むタイプがある。前者は個の強度で読ませ、後者は関係の変化で読ませる。本作は迷わず前者を取っている。

この選択は、読みやすさや商品性とも強く結びついている。
キャラクターが立っていれば、読者は物語に入りやすい。誰が何をする話なのかが直感的に分かり、感情移入の足場も作りやすい。一方、関係性を主役に据える作品は、どうしても読者を選ぶ。関係の曖昧さや変化を追い続ける集中力が必要になり、入口のハードルが上がる。

本作が、関係性を主題にしつつも、そこを前面に出し切らなかったのは、この点をよく理解しているからだと思う。
関係性は確かに重要だが、それを物語のエンジンにはしない。あくまでキャラクターが動いた結果として、関係がにじみ出てくる。この距離感が、作品を「読める」範囲に留めている。

その反面、関係性そのものを深掘りする余地は、意図的に制限されている。
関係を立てないということは、そこに踏み込む時間や紙幅を持たないということでもある。読者が感じる「もう少し見たかった」という感覚は、この選択の裏返しだ。

この章で言いたいのは、どちらが正しいかではない。
キャラクターを立てるか、関係性を立てるか。その分岐において、本作は明確に前者を選び、その選択にかなり忠実に作られているということだ。そして、その誠実さがあるからこそ、作品は破綻せず、同時に「惜しさ」もまたはっきりと残る。

次の章では、この選択を踏まえたうえで、商業的に“正しい線引き”(≒“商品としての誠実さ”)がもたらした強さと、同時に生まれた「惜しさ」をまとめて結論に向かいたい。

10. 結論:良作であり、だからこそ惜しい

ここまで書いてきた通り、ババヤガの夜は、エンタメとして十分に満足できる作品だ。暴力描写の強度は自覚的に制御され、キャラクターは明確に立ち、物語は破綻なく終着点にたどり着く。読者を途中で置き去りにしないという点で、かなり誠実に作られている。

同時に、その誠実さゆえに、作品の「線引き」もはっきり見える。
逃避行を深く描かない判断、関係性に名前を与えない設計、暴力を無制限に解放しない抑制。どれも商業作品としては妥当で、むしろ正解に近い選択だと思う。読みやすさを保ち、過剰に尖りすぎない。その結果、多くの読者が最後まで辿り着ける。

ただ、個人的には、その正しさが少しだけ眩しすぎた。
暴力の向こう側に見えかけていたもの、名前のない関係性がもう一段変質する可能性、筆者の人間性がさらに剥き出しになる余地。そうした「行かなかった場所」が、読後にくっきりと想像できてしまったからだ。

これは欠点というより、届きかけていた証拠だと思う。
何も感じなければ、惜しいとも思わない。安全に着地しただけの作品なら、ここまで考え込むこともない。良作であるからこそ、「もし別の選択をしていたら」という仮定が立ち上がる。

結局のところ、この作品は、商品として世に出るために必要な線引きを、かなり慎重に引いている。その線の内側で、できることはやり切っている。一方で、その線の外側にこそ、筆者のより剥き出しの部分や、関係性のさらに危うい姿があったのではないか、という思いも残る。

自分にとっての「惜しい」は、まとめるとこの三つだった。

  • 逃避行以降の時間が省略されたことで、ふたりの関係性が“生活”の中で変質する瞬間を見届けられなかった
  • 暴力の強度が自覚的に制御されているぶん、踏み越える可能性まで想像できてしまった
  • 関係性を名付けない設計が美しいからこそ、その余白がもっと揺れるところも見たくなった

つまり、完成度が高いのに、もう一段“別の地獄”があり得たと思わせる。だから忘れにくい。

この感想は、称賛でも否定でもない。
「よくできている」と同時に、「もっと見たかった」という、相反する感情の整理だ。この二つが同時に成り立つ作品は、そう多くない。そういう意味で、本作は確かに印象に残る一冊だった。

ここまで読んで気になった方は、実際に手に取ってみるのが一番だと思います。
作品として「どこで止めたのか」「何を描かなかったのか」をどう感じるかは、読者ごとにかなり差が出そうなので。

ババヤガの夜(Amazon)

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