こんにちは、よだかです。
辻村美月さんの「琥珀の夏」を読み終えたので、感想をまとめていきます。
教育、自律、大人の世界と子供の世界、敵と味方、素直さの功罪、、、。
主人公の現代パートと子供時代パートが交互に描かれながら展開するストーリーで、子供と大人のすれ違いが描かれます。
教育の成功とは洗脳なのかもしれないということを感じさせてくれた1冊。
教育観をアップデートし続けたい全ての大人に届いて欲しい作品です。
あらすじ
静岡県の”とある施設”跡で少女の白骨遺体が発見されます。
弁護士の近藤法子は「その少女は自分たちの孫かもしれない」という依頼人の訴えを受けて調査を開始します。
”とある施設”とは、かつて「ミライの学校」と呼ばれた教育施設で、過去に何人もの子供たちがそこで育てられていました。
法子自身も小学生時代に山村留学のような形で夏休みの1週間をそこで過ごした経験が3度ありました。
法子は、そこで仲良くなった”ミカちゃん”の記憶を思い返し「遺体がその子でなければ良い」という思いのもと、調査を進めていきます。
現在「ミライの学校」は事情があって規模を縮小しており、法子自身もモヤモヤとした想いを抱えていました。
事件の真相を探る中で、法子はその気持ちと向き合っていきますが、、、。
大人の理想・子供の想い
過去パートに登場する大人たちは、子供の教育に理想を掲げ「ミライの学校」の運営に携わっています。
子供自身の自主性を育てる"問答"や「ミライの学校」での生活様式は、まさに子供たちの自主性を育てるためのシステムだと言えます。
しかし、そこで過ごす子供たちの様子は、どこか寂しげで満たされないものを感じさせます。
「ミライの学校」過ごす子供達は、実の親元から離れた寄宿生活を営んでいるため、彼らの多くは多かれ少なかれ心に寂しさを抱えています。
「ミライの学校」という環境は、その寂しさを言語化することを許しません。
子供達は、自分の過ごす環境こそが最も価値のあるものなのだと考えるようになっています。
これは、自身の心を守るための一種の自己防衛のようにも感じられます。
子供の自主性を育むために考えられたシステムが子供の心を育てるのとは逆に作用してしまっていることは何とも皮肉な結果です。
相手の求めているものとこちらの差し出すもののギャップを双方が気がつかないことは、頻繁に起こり得るのです。
重要なのは双方に悪意がなかったということです。
悪意のないところに発生する問題が最も厄介です。
なぜなら、そもそも問題を問題と認識する第3者が存在しないからです。
片や善意での提供、片やその善意を前向きに捉える受け手。
歪みに気付かない構造はこうやって生まれるのです。
教育の目的
教育の目的とは何なのでしょうか?
その答えは時代によって異なります。
現代のように変化が激しく、様々なことに対応できる人材が求められているのならば「個人で稼ぐ力」「思考力」「自立した個人」などが挙げられるでしょう。この10年間で、終身雇用が危ぶまれ、一つの会社に依存しない働き方・生き方がトレンドとなり、転職や副業に関する発信は当たり前となりました。資本主義社会の在り方に警鐘を鳴らす発信はまだまだ盛んとは言いづらいですが、それでも現代の社会の在り方に疑問をもつ人は増えてきているように感じます。
一方、戦後復興を目指した1950年代の日本は、とにかく労働力が欲しかったので、「勤労」を美徳とする教育観を軸にして、とにかく働く国民を教育してきました。社会が求める人材を生み出すための教育が間違っていたとは思いません。そういった働き方のおかげで戦後の日本は復興を成し遂げてきたことは事実です。その復興無くして、現代のような裕福な暮らしはあり得ません。
教育が目指す未来は、社会が望む未来と重なります。
その時代に生きた人々が描く理想が子供たちの教育に反映されるのです。
つまり、教育が目指す理想は、その時代そのものとは若干のギャップが生じるのです。
現代の社会には一体どんな人材が求められるのでしょうか?
変化に強い・自分の頭で考えるといった言葉は、やや抽象度の高い概念です。
そこで納得してしまうようでは、本当の意味で自分の頭で考えているとは言えません。
安易に納得するのは「思考停止」と同じです。
納得しそうになった時、"誰かからもらった言葉"ではなく"自分の言葉"で語れるかが分かれ目と言えるでしょう。
現代に求められているのは、”自分の言葉をもつ人”なのです。
大人の再教育
"大人の再教育"は今の日本が抱える課題の一つだと感じます。
社会に出てからやはり勉強が必要だと感じている大人が多いからこそ、自己啓発やビジネス書が売れているのだと考えられます。
情報発信が容易になり、様々な媒体から個人が情報を提供する時代になりました。
今やどこを見渡しても学びの材料に溢れ、情報の渦に飲み込まれないように必死になっている人も少なくありません。
情報媒体を通して人気を集めている人達に共通しているのは”尖った個性”です。
多くの人の共感を得るのではなく、限られた一部にアプローチするビジネスを展開することが可能であることに気づいた個人が戦略を磨きぬき、企業と肩を並べる発信力・影響力を身に付けています。
発信ということのハードルが劇的に下がった時代において、”大人の再教育”が”発信”の方法やノウハウについて集中しているのです。
個人の生き方の集積が社会の潮流を作る
”発信”することで幸福の追求を達成している個人が目立つことで、そこには新たなニーズが生まれます。
この発信自体もそうですが、人が本来持っている”承認欲求”をネット環境を通じて満たそうとするのが現代のトレンドです。
個人の発信がネットを通じて拡散されることで、小さなコミュニティでは達成できなかった圧倒的多数へのアプローチを実現しました。
目の前の集団ではなく、ネットを通じた世間からの承認が得られることを現代の私たちは無意識に感じ取っています。
個人の自主性を重んじる背景には、集団同一化が伴う同一化の反動です。
個人の力を最大化することで、圧倒的多数へのアプローチを行えることの魅力はまだまだ輝きを増し続けています。
輝かしいものほど、その輝きがどこからきたのか、なぜそれを輝いているように感じるのかということを一旦見つめ直してみるのも良いかもしれません。
まとめ
最後まで読んでくださってありがとうございます。
単純な物語として楽しむだけでなく、大人としての教育観や生き方を見直すきっかけとなった本作。
事件の真相に迫る描写と子供時代の懐かしさが絡み合う展開はまさに”琥珀”ような美しさです。
懐かしくもあり、けれども直接触れることには若干の躊躇いもあリ、思い出がいつまで美しくあってほしい、、、。
法子が向き合った過去の記憶とそれを通じて掴み取った今の自分の生き方が、読者に生きていく光をくれます。
自分が提供するものと相手が期待するもののギャップを常に探っていかなければならないし、物事の答えは一つではないということや正解がない中でも探り続けることを諦めてはいけないのだということなどを強く感じさせられました。