こんにちは、よだかです。
井沢元彦さんの『真・日本の歴史』を読了したので、内容の簡単なまとめと、そこから得た気づきについて書いてみようと思います。
今回読んだ井沢元彦さんの『真・日本の歴史』は、こちらから購入できます。
まず、この本を読んで強く印象に残ったのは、井沢氏のスタンスそのものです。
本書では、歴史の専門家に対してかなり踏み込んだ、時に辛辣とも言える表現が繰り返し用いられています。
文中では「すべての専門家がそうではない」「個人を批判したいわけではない」といった補足もなされていますが、それでも文章全体を通して見ると、書き手が「自分」と「それ以外」を明確に区別して語っていることははっきりと伝わってきます。
その点は、私がこれまで読んできた歴史関連の書籍と比べても、かなり特徴的だと感じました。
ただ、それ以上に印象に残ったのは、そうした強い文体の奥にある、史料とその解釈に対するスタンスです。
私は井沢元彦さんの著作を読むのは今回が初めてだったため、正直なところ、この強烈な表現には少し驚かされました。
しかし読み進めるうちに、
「世界に存在するものを観測すること」と「それを解釈すること」は本来別の行為であり、
しかも観測の段階ですら、私たちは無自覚に解釈を含めてしまっている
という問題意識が、本書全体の根底に流れているように感じられました。
その点において、この本は単なる通説批判ではなく、ものの見方そのものを点検させる本でもあると感じています。
以下では、なぜ私がそう感じたのか、もう少し具体的に整理していきます。
1. 『真・日本の歴史』を読んだ理由
私が『真・日本の歴史』を手に取った直接の理由は、
「日本史を学びたい」というよりも、歴史という分野がどのように語られ、どのように“確定した事実”として扱われているのかに、以前から違和感を持っていたからです。
学校教育や一般的な歴史書を通して、日本史には「通説」と呼ばれる物語が存在します。
それらは多くの場合、疑う余地のない前提として提示され、いつの間にか「そういうものだ」として受け入れられていきます。
もちろん、学問として積み重ねられてきた研究の価値を否定したいわけではありません。
ただ一方で、
- 史料そのものと、その解釈はどこまで区別されているのか
- その解釈は、どんな前提や価値観の上に成り立っているのか
といった点について、立ち止まって考える機会はあまり多くないように感じていました。
そうした中で、本書が
「歴史の通説」そのものではなく、それがどのような思考の枠組みで成立しているのかに踏み込んでいると知り、興味を持ちました。
また個人的には、特定の結論を知りたいというよりも、
自分自身が何かを理解したつもりになっているとき、その理解がどこから来ているのかを点検したい、という動機が強かったのだと思います。
結果として、この本は日本史の知識を増やすためというより、
「ものを見るとき、自分はどこまでを観測し、どこから解釈しているのか」
その境界を見直すきっかけとして読むことになりました。
2. 本書の概要──井沢元彦は何を問題提起しているのか
『真・日本の歴史』は、日本史の出来事を網羅的に解説するタイプの本ではありません。
本書の主眼は、個々の史実そのものよりも、それらがどのような前提のもとで解釈され、「通説」として固定化されてきたのかにあります。
井沢元彦は、歴史研究においてしばしば行われてきた、
- 史料と解釈の混同
- 後世の価値観を無自覚に持ち込んだ説明
- 「正史」「通説」とされる物語の自己増殖
といった点に、強い疑問を投げかけます。
その際、彼が重視している視点のひとつが、言霊信仰です。
言葉そのものに力が宿ると考える文化的背景が、日本人の思考や判断の基盤に存在しており、その影響が歴史解釈にも及んでいるのではないか、という問題提起が繰り返されます。
また本書では、特定の人物や事件を一義的に評価することよりも、
- なぜそうした評価が生まれたのか
- どのような思考の枠組みが、それを「自然な理解」として支えているのか
といった点に焦点が当てられています。
こうした姿勢から、井沢元彦は既存の歴史解釈や学術的権威に対して、かなり踏み込んだ言葉を用います。
そのため、本書全体のトーンは挑発的に感じられる場面も少なくありません。
ただし、そこで行われているのは単なる通説批判というよりも、
「何を事実として扱い、どこからを解釈として語っているのか」
その境界を意識的に問い直す試みだと捉えることもできます。
本書は、日本史についての新しい答えを与えるというより、
歴史をどう読むか、そして自分自身がどのような前提で理解しているのかを自覚させることを目的とした一冊だと言えるでしょう。
3. 刺さったのは「主張」ではなく、もっと手前の部分だった
本書を読み終えたあと、あらためて考えてみると、私が強く印象に残ったのは、井沢元彦の個々の主張そのものではありませんでした。
歴史上の人物や出来事に対する評価、あるいは通説への異議申し立てについては、正直なところ「そういう見方もあるのだな」と受け止めた部分が多いです。
それらがどこまで妥当か、あるいは反論の余地があるかといった点については、ここでは一旦脇に置いておこうと思います。
それ以上に刺さったのは、歴史を語る際の“姿勢”そのものでした。
本書を通して繰り返し感じたのは、「何が起きたのか」を語る前に、
自分はいま、どの立場から、どの前提でそれを見ているのかを自覚せよ、という無言の圧力のようなものです。
井沢元彦の文章は挑発的で、ときに断定的にも見えます。
しかし、その語り口の奥には、
- 史料と解釈を無自覚に混同していないか
- 「事実」と呼んでいるものに、どれだけの解釈が含まれているのか
といった問いが、常に置かれているように感じました。
この本を「井沢史観は正しいかどうか」という軸で読もうとすると、
賛成か反対か、どちらかに立たされる感覚があります。
けれども、私にとって重要だったのは、その先にある結論ではなく、そこに至る思考の運び方でした。
歴史に限らず、私たちは何かを理解したつもりになるとき、
「観測している」と思いながら、実際にはかなりの部分を解釈してしまっています。
そしてその解釈が、いつの間にか事実そのものと入れ替わってしまう。
本書は、その危うさを、特定の答えを提示することでなく、
読み手自身の思考を照らす形で突きつけてくるように感じました。
だからこそ、刺さったのは主張ではなく、
「ものを見るとき、どこまでを事実として扱い、どこからを意味づけとして語っているのか」
その線引きを問い直す視点だったのだと思います。
次章では、この問いが、私自身の「観測」と「解釈」の扱い方をどのように揺さぶったのかについて、もう少し整理していきます。
4. 観測と解釈の線引きはどこにあるのか
本書を読み進める中で、私の中に残り続けた問いがあります。
それは、「観測」と「解釈」の境界は、いったいどこに引けるのだろうか、というものです。
一般的には、
- 観測=起きた事実をそのまま見ること
- 解釈=その事実に意味を与えること
というふうに、両者は明確に分けられるものとして語られがちです。
しかし本書を読んでいると、その区別は思っているほど単純ではないのではないか、という感覚が強くなってきました。
たとえば、歴史における「史料」を考えてみます。
史料は一見すると、解釈以前の“生の事実”のように見えます。
けれど実際には、どの史料を史料として採用するのか、どの部分に注目するのかという時点で、すでに選別が行われています。
その選別は、多くの場合、無自覚に行われます。
だからこそ、「観測しているだけ」という感覚が生まれるのでしょう。
しかし、何を観測対象として切り出したのか、何を見なかったことにしたのか。
そこには、観測者自身の関心や価値観が必ず入り込んでいます。
本書を通して感じたのは、井沢元彦がこの点を執拗なまでに問題にしている、ということでした。
彼は「解釈が混じっているからダメだ」と言いたいわけではないように思います。
むしろ、「混じっていることを自覚しないまま、事実だと言い切ってしまう危うさ」を指摘しているのではないでしょうか。
観測と解釈を完全に分離することは、おそらく不可能です。
それでもなお、その境界について意識的であろうとすること。
どこまでを「いま自分が観測していると思っている部分」で、どこからを「自分が意味づけしている部分」なのかを、何度も問い直すこと。
本書は、その姿勢を読み手に要求してくるように感じました。
そしてこの問いは、歴史という分野に限らず、
日常的な判断や、情報の受け取り方、さらには自分自身の思考の癖にも、そのまま当てはまるものだと思います。
次章では、さらに一歩進めて、
「そもそも観測そのものが、すでに解釈を含んでいるのではないか」
という前提について考えてみたいと思います。
5. 観測そのものが、すでに解釈を含んでいるという前提
前章で触れた「観測と解釈の線引き」という問いを考え続けているうちに、私はひとつの前提に行き着きました。
それは、観測そのものが、すでに一定量の解釈を含んでいるのではないか、という前提です。
私たちは何かを「観測している」と思うとき、そこには無意識のうちに多くの選択が含まれています。
- 何を対象として見るのか
- どの範囲までを切り取るのか
- どの時間軸で捉えるのか
これらはすべて、観測以前に行われている判断です。
つまり、観測とは「世界をそのまま受け取る行為」ではなく、世界の中から、意味がありそうだと思った部分を切り出す行為でもあります。
この時点で、すでに解釈は始まっている。
本書を読んでいて印象的だったのは、井沢元彦がこの点を前提として歴史を語っているように感じられたことです。
史料を絶対的な事実として扱うのではなく、
「なぜその史料が重視されてきたのか」
「なぜその解釈が自然なものとして受け入れられてきたのか」
といった問いが、常に背後に置かれています。
観測と解釈を完全に分けることができないのだとすれば、重要なのは「解釈を排除すること」ではありません。
むしろ、自分がどの段階で、どの程度の解釈を混ぜているのかを自覚することだと思います。
その自覚がないまま語られる「事実」は、往々にして強い説得力を持ちます。
なぜなら、それは解釈であるにもかかわらず、解釈であることを隠しているからです。
本書を通して私が学んだのは、
「客観的であろうとすること」よりも、
自分の認識がどのように構成されているのかを理解しようとする態度の方が、よほど誠実なのではないか、ということでした。
観測に解釈が混ざること自体は避けられない。
だからこそ、その前提を引き受けた上で、
「いま自分は、どこまでを事実として扱い、どこからを意味づけとして語っているのか」
その境界を一旦、自分の中で確定させる。
この姿勢こそが、本書を通して私がもっとも大切だと感じた点です。
次章では、こうした前提を踏まえたうえで、
井沢元彦が強調する「言霊信仰」という概念を、日本人の思考の癖という観点から整理してみたいと思います。
6. 言霊信仰という“日本人の思考OS”
本書の中で、井沢元彦が繰り返し言及している概念のひとつが、言霊信仰です。
言葉に霊的な力が宿り、発せられた言葉そのものが現実に影響を及ぼす、という考え方。
これは宗教的な信仰というよりも、日本文化の深いところに染み込んだ感覚に近いものだと感じました。
井沢元彦は、この言霊信仰を、日本人の歴史解釈や思考様式の前提条件として扱っています。
つまり、個々の歴史的判断の背後には、「言葉は単なる記号ではない」という無意識の了解があり、それが解釈の方向性に影響を与えてきたのではないか、という視点です。
たとえば、
- 不吉な言葉を避ける
- 直接的な否定を言い換える
- 名付けや呼称に強い意味を見出す
こうした感覚は、現代に生きる私たちにも、かなり自然なものとして残っています。
それらは理屈として説明されることは少ないものの、
「そういうものだ」という前提として、思考の底に沈んでいる。
本書では、この言霊信仰が、歴史上の人物評価や出来事の位置づけにまで影響してきた可能性が示唆されます。
ある言葉で語られた瞬間に、その対象が持つ意味や価値が固定化され、
その後の解釈が、その枠の中で再生産されていく。
ここで重要なのは、言霊信仰が「正しいかどうか」を判断することではありません。
むしろ、自分たちがそうした思考のOSの上で世界を見ている可能性を自覚することだと思います。
観測そのものが解釈を含んでいる、という前提に立つならば、
言霊信仰は、その解釈を方向づける“初期設定”のような役割を果たしている、とも言えます。
私自身、この章を読みながら、
「自分はどれだけ言葉に引きずられて物事を理解してきただろうか」
「ある呼び方や表現を、無意識に事実と同一視していなかっただろうか」
そんな問いが浮かびました。
言霊信仰という概念は、日本史を説明するための道具であると同時に、
自分自身の思考を点検するためのレンズでもあります。
次章では、この視点を踏まえたうえで、
「井沢史観は正しいのか?」という問いそのものが、なぜ少しズレているように感じたのかについて整理していきます。
7. 「井沢史観は正しいか?」という問いがズレている理由
『真・日本の歴史』を読み進める中で、私は途中から、
「井沢史観は正しいのか、間違っているのか」
という問いを、この本に向けること自体が少しズレているのではないか、と感じるようになりました。
これは、誰かの評価や批評を読んでそう思ったわけではありません。
むしろ、本書そのものを読んでいる過程で、自然と立ち上がってきた違和感に近いものです。
というのも、この本は、特定の歴史解釈を「これが正解だ」と提示する構造になっていないように感じられたからです。
井沢元彦は、歴史上の人物や出来事について独自の見方を示しつつも、それ以上に強く意識しているのは、
その見方が生まれてきた前提や、思考の枠組みそのものではないでしょうか。
もしこの本を、「井沢元彦の歴史解釈集」として読むなら、
それがどこまで正しいのか、通説と比べてどうなのか、という評価軸が出てくるのは自然です。
ただ、その読み方を採用した瞬間に、私はどこか居心地の悪さを覚えました。
なぜなら、それは本書が一貫して問題にしている
「解釈がどのように事実として固定化されていくのか」
という問いから、視線を外してしまうように感じたからです。
この本が投げかけているのは、
「どの歴史解釈が正しいか」ではなく、
「私たちは、どのような前提のもとで歴史を理解していると思い込んでいるのか」
という、より手前の問いだと思います。
その前提を点検しないまま、
「井沢史観は正しいか?」と問うてしまうと、
結局は別の解釈を、別の解釈で上書きしているだけになってしまう。
私にとって重要だったのは、
井沢元彦の主張に同意するかどうかではなく、
自分自身が、どのような枠組みで物事を理解しようとしているのかを自覚できたかどうかでした。
だからこそ、この本を読んだあとに残ったのは、
「どちらが正しいか」という結論ではなく、
「自分は、いま何を事実として扱い、何を解釈として語っているのか」
その線引きを問い直す必要性だったのだと思います。
次章では、この視点を踏まえたうえで、
本書を通して私自身がどのように「事実」を一旦確定させるようになったのかについて、もう少し具体的に書いていきます。
8. 自分にとっての「事実」を一旦確定させるという態度
ここまで書いてきたように、本書を通して私がもっとも強く意識するようになったのは、
「観測」と「解釈」をどう扱うか、という問題でした。
観測そのものがすでに解釈を含んでいる以上、
完全に中立な立場から事実を捉えることは、おそらく不可能です。
では、その前提に立ったとき、私たちは何をよりどころに考え、判断すればよいのでしょうか。
本書を読みながら私がたどり着いたのは、
自分にとっての「事実」を、一旦確定させるという態度でした。
ここで言う「事実」は、
普遍的で絶対的な意味での事実ではありません。
あくまで、
- いまの自分が
- どの前提を引き受け
- どの観測結果を重視し
- どこまでを解釈として自覚した上で
暫定的に採用している事実、という意味です。
重要なのは、「正しい事実」を見つけることではなく、
自分が何を事実として扱っているのかを、自分自身が把握している状態を作ることだと思います。
観測と解釈が混ざり合っているにもかかわらず、
それを曖昧なままにしてしまうと、
私たちはいつの間にか、誰かの解釈を「事実」として受け取ってしまう。
あるいは、自分の解釈を、無自覚に事実だと思い込んでしまう。
その状態を避けるために、
「これは観測に近い部分だと思っている」
「ここから先は、自分の解釈がかなり混ざっている」
そうした線引きを、自分の中で言語化し、確認する。
そして、その線引きを踏まえた上で、
いまはこれを事実として扱うと一旦決める。
この「一旦」という留保が、私にはとても重要に思えました。
それは、考えることを放棄しないための姿勢であり、
同時に、いつでも修正可能であることを自分に許す態度でもあります。
本書は、こうした態度を直接的に教えてくれるわけではありません。
ただ、史料と解釈の関係を執拗に問い直すその姿勢が、
結果として、私自身の思考の置き方を見直すきっかけになりました。
「事実を確定させないまま考え続ける」のではなく、
「自覚した上で、一旦確定させて考える」。
この違いは小さいようでいて、
実際には思考の安定性や、判断の責任の持ち方に、大きな影響を与えるように感じています。
この本を通して私が得たのは、
正しい答えそのものではなく、
自分がどのような前提で事実を扱っているのかを
一度、自分自身で引き受けるという態度でした。
その態度が定まったとき、
次に考えたくなったのは、
その前提の上で、自分は世界や他者とどう関わっていくのか
という点です。
次章では、それについて掘り下げていきます。
9. 否定は、思考を守るための手段だった
前章で書いたように、
自分がどの前提で事実を扱っているのかを一度引き受ける、という態度を意識するようになってから、
次に気になり始めたのは、その前提の上で、私は実際にどう振る舞ってきたのかという点でした。
そこで改めて自分のこれまでの思考や行動を振り返ってみると、
ひとつ、はっきりとした傾向があることに気づきます。
それは、特定の領域や考え方に対して、強い否定を示しやすい、ということです。
この否定は、議論に勝ちたいからでも、相手を貶めたいからでもありません。
むしろ感覚として近いのは、距離を取るための反応です。
自分の中で十分に考え抜いていない意見や、
前提が整理されていないまま語られる言葉に触れたとき、
それが自分の思考空間に入り込んでくることに、強い抵抗を覚える。
その結果として、
「それは違う」
「その前提には乗れない」
と、否定という形で境界を引いてきたのだと思います。
こうして振り返ってみると、
私にとって否定は、攻撃というよりも、自己防衛のための手段でした。
自分の思考の純度を保つために、
混ざりたくないものを弾き返すための動作だった。
ただ、この本を読んだあと、その否定のあり方についても、少し立ち止まって考えるようになりました。
観測と解釈が混ざり合うことを前提にするなら、
他者の言葉が雑に感じられるとき、
それは単に「相手が間違っている」という話ではなく、
採用している前提や、解釈の置き方が大きく異なっているというだけかもしれない。
そう考えると、否定は必要な場面もある一方で、
常に最適な選択肢とは限らないのではないか、という疑問も浮かびます。
否定は境界を守るには強力ですが、
同時に、否定対象を自分の思考の中で何度も再生してしまう行為でもあります。
排除するために注視し続けることで、
結果的に、その思考を自分の内側に長く留めてしまう。
それは、思考を守るはずの手段が、
かえって思考を濁らせてしまう可能性がある、ということでもあります。
この章で言いたいのは、
否定が悪い、やめるべきだ、という話ではありません。
否定は、これまでの私にとって、確かに機能してきた手段でした。
ただ、本書を通して「前提を引き受ける」という態度を意識するようになった今、
否定以外にも、思考のコアを守る方法があるのではないか。
そう考えるようになった、という変化について書いています。
次章では、
否定という手段に代わるかもしれない、
より静かで、より濁りにくい関わり方について、もう少し掘り下げてみます。
10. 否定すらも自分を濁らせる
前章で書いたように、私にとって否定は、思考を守るための実用的な手段でした。
雑な前提や、十分に考えられていない言葉から距離を取るための、いわば防御反応です。
正直、この防御反応自体には今まで何度も救われてきましたし、今でも非常に役立っていますから、悪いものだとは思いません。
ただ、その否定が自分を濁らせる瞬間もあり、
それは何故なのだろうか、という点については、
これまであまり意識的に考えたことがありませんでした。
否定という行為を、もう少し冷静に眺めてみると、
そこにはひとつ、見過ごしにくい構造があります。
否定するためには、まず相手の考えを理解しなければならない。
どこが曖昧なのか、どの前提が成り立っていないのか、
どの論点が飛躍しているのかを、頭の中でなぞる必要がある。
つまり、否定とは、
排除したいはずの思考を、自分の中で精密に再現する行為でもあります。
境界を引くために目を向け続けることで、
本来は距離を置きたかった思考を、
かえって長時間、自分の内側に滞在させてしまう。
ここに、否定が自分を濁らせる理由があるように思います。
さらに言えば、否定は感情を伴いやすい行為でもあります。
違和感や苛立ち、拒否感といった感情は、
思考の解像度を一時的に上げる一方で、
視野を狭めてしまう側面も持っています。
否定しているあいだ、私は確かに鋭くなります。
しかし同時に、
「自分は何を考えたいのか」
「どこへ向かおうとしているのか」
という本来の関心から、少しずつズレていく感覚もありました。
このズレこそが、私の言う「濁り」なのだと思います。
否定は、思考を守るためには有効です。
けれど、それを主な手段として使い続けると、
いつの間にか、否定すること自体が思考の中心に入り込んでくる。
そうなると、本来守りたかったはずのコアよりも、
排除したい対象のほうが、
思考の中で大きな存在感を持ってしまう。
本書を読んで以降、
私はその状態を、できるだけ短くしたいと感じるようになりました。
否定するかどうか、という二択ではなく、
そもそも反応しない、触れない、採用しない
という選択肢をより自然に採用できるようになりたい、という感じでしょうか。
次章では、
否定に頼らずに思考の純度を保つために、
私が今、どのようなOSを欲しているのかについて書いていきます。
11. もっと良い思考OSが欲しい
ここまで書いてきたことを振り返ると、
私がこの本を通して考え続けていたのは、
「否定すべきか、肯定すべきか」といった判断そのものではなく、
その判断がどのような前提と仕組みの上で行われているのか、という点だったように思います。
否定は、これまでの私にとって、確かに有効な手段でした。
思考を守り、境界を引き、不要なものから距離を取るための、即効性のある方法だった。
その点は、今でも変わりません。
ただ一方で、否定に頼り続けることで、
自分の思考がどこへ向かおうとしているのかよりも、
「何を排除するか」のほうに意識が引っ張られてしまう瞬間があることにも、
はっきりと気づくようになりました。
そこで、自然と浮かんできたのが、
もっと良い思考OSが欲しい、という感覚です。
ここで言う思考OSとは、
何かを評価するためのルールや、
正誤を素早く判定するための基準ではありません。
むしろ、
- 何に反応し、何に反応しないのか
- 何を取り込み、何を最初から通さないのか
- どこで思考を止め、どこから深めるのか
そうした選別が、無理なく、静かに行われる状態を指しています。
否定しなくても、自然に距離が取れる。
批判しなくても、採用しないでいられる。
そうした状態に近づくことができれば、
思考の純度は、今よりもずっと保ちやすくなるはずです。
井沢元彦さんの『真・日本の歴史』は、
そのための具体的な方法を教えてくれる本ではありません。
ただ、
「観測と解釈をどう扱っているのか」
「どの前提の上で、事実を事実としているのか」
そうした点を徹底的に問い直す姿勢は、
思考OSそのものを点検するきっかけになりました。
正しい答えを持つことよりも、
自分がどのような前提で考えているのかを引き受けること。
そして、その前提の上で、
どう世界や他者と関わっていくのかを選び直していくこと。
この本を通して私が得たのは、
歴史についての新しい理解というよりも、
自分の思考の置き方を、少しだけ更新するための視点だったのだと思います。
おそらく、これで完成形というわけではありません。
ただ、否定に頼らなくても済む瞬間を少しずつ増やしながら、
より静かで、より濁りにくい思考OSに近づいていけたらいい。
今は、そんなふうに考えています。
12. まとめ──この本は「信じる本」ではなく「思考を点検する本」
『真・日本の歴史』を読み終えて強く感じたのは、
この本は、何かひとつの歴史観を信じさせるための本ではない、ということでした。
井沢元彦は、確かに強い言葉で語りますし、
通説や権威に対して、かなり踏み込んだ姿勢を取っています。
そのため、読み手によっては、賛否が分かれる部分も多いでしょう。
けれど、私にとってこの本の価値は、
個々の主張の正しさや、解釈の妥当性そのものにはありませんでした。
それよりも、
- 自分は何を「事実」だと思っているのか
- その事実は、どの段階で解釈を含んでいるのか
- どんな前提の上で、世界を理解しようとしているのか
そうした点を、繰り返し立ち止まって考えさせられたこと。
この一点において、本書はとても誠実で、刺激的な一冊だったと感じています。
歴史に限らず、私たちは日々、
無数の情報や言葉に触れながら、
「分かったつもり」になることを求められています。
その中で、観測と解釈の境界が曖昧なまま、
誰かの語りをそのまま事実として受け取ってしまうことも少なくありません。
この本は、そうした状態に対して、
「一度、自分の思考の足場を点検してみてはどうか」
と静かに問いかけてくるように思います。
だからこそ、この本は
「信じるかどうか」を決めるために読む本ではなく、
自分の考え方や、ものの見方を点検するために読む本なのだと思います。
歴史に強い関心がある人はもちろん、
自分の思考の癖や、判断の前提について考えることが好きな人にとっても、
得るものは多いはずです。
私自身、この本を読んだことで、
何か明確な答えを手に入れたわけではありません。
ただ、自分がどんな前提で考え、どこで解釈を混ぜているのかを、
以前よりも自覚的に扱えるようになった気がしています。
そういう意味で、
これは間違いなく、おすすめできる本です。
正しさを与えてくれるからではなく、
考えるための余白と視点を残してくれるから。
その点を期待して手に取るなら、
きっと、読む価値のある一冊になると思います。