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【人は100%死ぬ】死の壁【養老孟司】

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どうも、よだかです。

今回紹介するのは、養老孟司さんの「死の壁」です。

死を考えることは、生について考えることだということを改めて教えてもらえた本です。

人生のあらゆることは取り返しがつかない。

だからこそ、今日を大切に生きよう!ということを感じさせてくれます。

解剖医としての人生を歩んでこられた筆者の人生観がぎゅっと詰まっています。

2004年に出版された本ですが、これもまた現代に通ずる本質的な考え方が学べる内容。

「養老孟司先生10冊読破企画」の2冊目。

「死」という普段はほとんど考えないであろうことに思いっきり踏み込ませてくれた本

早速、内容と感想をまとめていきましょう!

人は致死率100%

どんな人でも必ず死にます。

では、なぜ人を殺してはいけないのでしょうか?

人それぞれに答えはあるかと思いますが、一度真剣に考えてみてください。

著者は「元通りにできないからだ」と言います。

なんだか解剖学者らしい答えですね。

ここでいう元通りにできないというのは、死んでしまった本人のみならず、その人にまつわる全ての関係性をひっくるめてのことです。

人は、システムの一部です。

多くの命を頂いた上で生きています。

当たり前かも知れませんが、これを本質的な部分で理解できている人がどれだけいるのでしょうか?

そもそも、死について考えるときに、私たちはどんな考え方を土台にしているのでしょうか?

考えることの土台を疑うこと」は、養老孟司先生の考え方の根幹に流れるものです。

人は本来罪深いものだという自覚をもつことが大切です。

同様の理由で、自殺もよろしくありません。

自殺することで、本人の周りの関係性も全て破壊してしまうからです。

自分の命は自分だけのものではないということをしっかりと教えられていれば、自殺は減っていくはずです。

自殺するつもりで富士の樹海に立ち入った人の首吊り縄が切れてしまって「死ぬかと思った」というエピソードが紹介されていますが、なかなかに笑えない話だと感じました。

自分の命と本気で向き合うということをしてこなかったからなのかも知れません。

死を実感できなくなった

現代は、死を実感しにくい時代です。

その一因として挙げられているのが「名前が変わらなくなった」ことです。

明治以降、戸籍制度の変更により、一生同じ名前で生きていくことになりました。

それまでは、幼名があり、元服すると名前が変わっていました。

しかし、この時期に、一度生まれたら名前が固定されることになったのです。

これは、人間が情報化したことで「死ねない」存在になったということに通じます。

「情報化することが変化しなくなることである」という件は「バカの壁」でも述べられています。

【人生は崖のぼり、考える土台を疑え!】バカの壁【養老孟司】

また、死が身近であったことを示す根拠として、一休和尚の詠んだ短歌に「死体を焼く煙」が出てくることが挙げられています。

当時の人々は、あちこちでこうした煙を目にして「いずれは自分もああなるのだなぁ」と想いを馳せていたはずです。

ところが今は、死は忌み嫌われるものとしての側面が強く認識されるようになってきています。

「生きている」ということは「しょっちゅう変わっているのに安定している」なんとも奇妙な状態です。

なればこそ、死というものが生と繋がっているものであるという認識をしてもおかしくないはずです。

それゆえに、一度死に近い体験をしている人や死について深く真剣に考えたことのある人は、しなやかな捉えを持っています。

【感想・まとめ】生物はなぜ死ぬのか【小林武彦】

何をもって「死」とするか?

そもそも、どんな状態を「死」であると定義すれば良いのでしょうか?

現代の医学では、以下の3点が人の「死」であるとされています。

①自発呼吸が止まる

②心拍が止まる

③瞳孔が開く

つまり、「死」とは死亡診断書の上にあるものなのです。

これを「細胞の活動が止まった時」などと定義されてたならば、事情が変わってきます。

なぜなら、心拍が止まった後も、一定期間髪の毛などな伸び続けるからです。

ここで考えたいのは、死を否定したり、その線引きについて論じ合ったりすることではありません。

私たちが「死」というものに真剣に向き合うことで、「生きている」とはどういう状態なのかを考えてみてほしいのです。

脳死状態の定義から臓器提供において、これまで大変多くの人たちが議論を交わしてきました。

詳しい流れは別の本書での紹介に預けますが、「死」について考える土台というものが、その人の立場によって大きく変わってくるということを覚えておきましょう。

改めて明文化しなくても良いことは、曖昧なままでも良いのです。

大体がそれでうまく回っていくものです。

あえてはっきりさせようとするから問題が起こる。

問題を問題であると捉えることで、事態がややこしくなってしまうこともあるのです。

医療自体が発展することは大変喜ばしいことですし、多くの人の命が救われたり、健康が促進されるメリットがあることには何の反論もありません。

ところが、こと「脳死」ということの定義においては、矛盾した定義がなされることもあるのです。

「生きている方に逆戻りできない状態」と定義されていますが、これは生きている状態にも当てはまることです。

生死の境は死亡診断書の上にあります

社会的には、誰にでも分かるように「死」を定義しておかないと、遺産蔵族をするときなどに困ってしまうからですね。

「システムを維持するために、わざわざ決めにくいことを決めてしまう」というところに、決め事の難しさがあるのです。

日本人の共同体意識

死体は「穢れ」とセットで扱われることが多いです。

「清めの塩」というものを思い浮かべて、それを不自然に感じる人はほとんどいないでしょう。

また、「人工中絶」という言葉も一般には受け入れ難い言葉です。

(筆者は、中絶を推奨しているわけではありません!念の為、、、)

かつて日本には、「間引き」の文化がありました。

俗にいう「口減らし」です。

共同体を維持するために、産後間もない胎児の命を絶つ役割を担う人がいたのです。

もちろん、その役目を担う人達は、自身の業の深さと生涯向き合い続けながら一生を過ごすことになります。

そして、共同体のメンバーもそのことを知っていて、暗黙の了解のもと、事実を受け止めながら過ごしていたのです。

「間引き」は、一種の入国審査のようなものとして機能していたという興味深いエピソードです。

また、「死」について「仲間はずれ」にも似た感覚を持っていると指摘されています。

自分達の共同体から外れたものとして「死」を扱う感覚があるということです。

体から離れたものを、自身の体の一部であると感じなくなることにも通じています。

古来、日本には共同体の中で「死」を共有していたのです。

その意味では、誰もが「死」を意識していたと言えます。

死を背負う

自分がしゃべると人が死ぬ。

多くの人を動かす立場にある人間は、そのことをよくよく自覚しておかなければなりません。

「死」が実感できなくなったのは、エリート教育がなされなくなったことも原因の一つです。

戦時中の軍人達は、ある種「殺す側」であるという自覚を持っていたはずです。

つまり、自分自身の業の深さについて向き合わされ続けていたことになります。

自衛隊に勤める方が「実際に部下を戦争に送ることになった時に、自分にはその資格があるのか」を問うエピソードはとても印象深かったです。

自分以外の多くの人の死を自覚できる環境にいてこそ、「死」の意味や自身の言葉の重さについて考える。

また、日本は敗戦後、「ものつくり」の国として、大きく成長を遂げてきた歴史があります。

それは、敗戦という事実をモチベーションに変えて進み続けてきたからこそ達成したことでもあります。

比較的豊かになってきた現在、そういったモチベーションは薄れてきており、ものつくりの国として発展を続けることはむずかくなってきているのかも知れません。

「命の重さ」という言葉は、タテマエなのかも知れません。

けれども、それを分かっていない人が多過ぎます。

安易にルールを決めると、それに従って思考停止で行動する人が増えます

人は、誰かに決めてもらった方が楽ですし、苦しいことからは逃げ出したいものです。

戦争自体は、無くなって然るべきものですし、死について考えなくても良くなったのは幸せな証拠なのかも知れません。

不必要に命が奪われるようなことは、絶対にあってはいけません。

「死」を闇雲に忌避するのではなく、そばに置いて考える。

「死」を身近なものとして捉える機会を我々は減らしてきたのです。

考えるべきこと

筆者は、3種類の「死体」を定義しています。

①一人称の死体

自分自身の死体。観測不可能。自分自身が死んでいる時点で、それを観測する主体が存在しないから。

これについては、実質考えるだけ無意味。「口」がどこから口であるかを考えるのにも似ている。

②二人称の死体

知っている人の死体。親族、友人、仲間、家族、恋人など。何らかの形で自分と関わりのあった人の死体。

これについては、深く考える必要がある。脳死や安楽死などの議論を巻き起こすのも、この2人称の死が関連している。

③三人称の死体

どこかの誰かの死体。直接自分と関係ない人の死体。

この死体は、私たちが最もしたいであると認識しやすい

 

③においては、掘り下げてみたくなりますね。

人が人の死体を認識するというのはどういうことなのだろう。

自分という主体と切り離して考えることは、それをモノとして扱っていないといえるのでしょうか?

「死」を考える上で、主体との関係性と結びつけていくプロセスは避けては通れません。

親しい人の死と、知らない人の死も現象というレベルでは等しく同じ死なのではないでしょうか。

そこに意味づけをしやすいかどうかということが違いだと思います。

あくまで”しやすいかどうか”ということです。

どんな”死”であっても、そこに関心を向けた瞬間から、自分にとっての特別な「死」になるのですから。

私たちは、関心を向けていないことがものすごくたくさんあります。

それどころか、関心を向けたつもりになっていることだってあるでしょう。

関心を向けていないことに気づき、少しずつ心を向けていく努力をする。

関心を向ける方法についても疑ってみる。

感じることのできる世界の範囲を少しずつ少しずつ広げていける人でありたいです。

まとめ

最後まで読んでくださってありがとうございます。

死体はモノではありません。

「生きている人間と同じです」との言葉があって、思わず感動してしまいました。

養老孟司先生の思考の一端を知ることのできる本書。

是非とも手に取って読んでみてください。

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