こんにちは、よだかです。
ストロベリーナイト/ソウルケイジ/シンメトリーのシリーズを3作品通して読んだので、感想をまとめます。
ざっくり言うと、本作は主人公のエリート女性刑事・姫川玲子が、事件解決のためにあれやこれやする物語です。
一作目の『ストロベリーナイト』は、あまりに陰惨な暴力描写に圧倒されて、「これを書いた作者も、世に出した編集もすごいな」と素直に思いました。
ところが、2作目、3作目と読み進めるうちに、少しずつ「あれれ?」という違和感を覚えるようになりました。
ただ、だからといって作品を批判したいわけではありません。
今回は、このシリーズを読んで私が感じた違和感がどこから来ているのかを、できるだけ整理して言語化してみようと思います。
※今回感想を書いた『ストロベリーナイト』シリーズは、
一作目については強烈な印象が残っていて、
少なくとも「読んで損した」と感じる作品ではありませんでした。
気になる方はこちらからどうぞ。
→ ストロベリーナイト(シリーズ)
1. 読んだ作品と、まずは率直な印象
今回読んだのは、『ストロベリーナイト』『ソウルケイジ』『シンメトリー』の3作品です。
いずれも同じ主人公を中心に据えたシリーズ作品で、順番に読み進めました。
率直な感想を一言で言うと、読後の満足感は正直あまり高くありませんでした。
ただし、これは「つまらなかった」という意味ではありません。
むしろ、1作目を読んだ直後はかなり強い印象を受けています。
特に『ストロベリーナイト』は、陰惨な暴力描写が前面に出ていて、読んでいて何度か手が止まりました。
「よくこれを書いたな」「よくこれを世に出したな」と思わされる場面も多く、作品としての強度は間違いなく高いと感じました。
物語としての面白さ以上に、読者に不快さや居心地の悪さを真正面から投げつけてくる姿勢が印象に残っています。
一方で、2作目の『ソウルケイジ』、3作目の『シンメトリー』と読み進めるにつれて、
そうした衝撃や緊張感よりも、「あれ?」という小さな違和感が少しずつ積み重なっていきました。
話の展開が極端につまらなくなったわけでも、キャラクターが嫌いになったわけでもありません。
それでも、読み終えたあとに残る感触が、1作目とは明らかに違っていたのは確かです。
この違和感が何だったのか。
次の章以降では、その点をもう少し細かく整理していきたいと思います。
2. エリート女性刑事が主人公の物語について思ったこと
まず前提として書いておきたいのは、
私は「エリート女性刑事が主人公であること」自体に否定的な感情を持っているわけではありません。
女性が警察組織の中で成果を上げ、困難な事件に立ち向かう物語は、それ自体として成立しますし、現実の延長線としても違和感はありません。
また、能力のある人物が中心に据えられることで、物語がテンポよく進むという利点もあります。
その意味で、このシリーズの主人公設定は、商業作品としては非常に分かりやすく、読みやすい構成だと思います。
実際、1作目を読んでいる間は、「エリート女性刑事が主人公であること」が引っかかることはほとんどありませんでした。
ただ、読み進めるうちに感じるようになった違和感は、
「エリートであること」そのものではなく、エリートとしての描かれ方に向いていました。
物語の中で主人公は一貫して有能で、判断力があり、行動力もあります。
周囲と衝突する場面はあっても、最終的には正しさを証明し、結果を出す存在として描かれています。
それ自体は決しておかしな描写ではありません。
しかし、そこに少しずつ、「この人物はどこで踏みとどまっているのだろう」「何を我慢しているのだろう」という疑問が生まれてきました。
エリートであることは、成果を出すことと同時に、
自分の感情や正しさを抑え込むこととセットである場合が多いように思います。
その緊張感や抑制が見えないまま物語が進んでいくことで、主人公が少しずつ、現実感の薄い存在に感じられるようになっていきました。
この時点では、まだはっきりとした不満があったわけではありません。
ただ、「何かが引っかかる」という感覚が残り始めた、という程度です。
次の章では、もう少し踏み込んで、
私自身が考える「エリート性」と、この作品で描かれているそれとのズレについて書いてみたいと思います。
3. 私はエリート性そのものは嫌いではない
ここまで書いておいて何ですが、
私はエリート性そのものが嫌いなわけではありません。
むしろ、自分なりに振り返ってみると、
組織の中で成果を出してきた人間に対して、一定の敬意や共感を持っている方だと思います。
結果を出すことは簡単ではありませんし、評価される立場に立つということ自体が、常にリスクを伴うからです。
成果を出す人間は、とかく「自信」や「強さ」に目が向けられがちですが、
現実には、その裏側でかなりの我慢や抑制を強いられていることが多いと感じています。
自分の正しさを主張しすぎないこと、感情を表に出しすぎないこと、
時には必要以上に頭を下げたり、卑屈に振る舞ったりすることさえ、
組織の中では立派な戦術になります。
特に、中途半端に力を持ったエリートほど、
奢りや自負を表に出した瞬間に足元をすくわれやすい。
だからこそ、本当に「できる人」は、それを分かっていて、意識的に耐えているように思います。
もちろん、圧倒的な実力を持つ超越的な存在であれば、
そうした配慮を必要としない場合もあるのかもしれません。
ただ、それはごく限られた例外であって、
多くの「現実的なエリート」は、我慢と抑制の上に成り立っている存在だと感じています。
この視点で読み返してみると、
本作の主人公に対して感じた違和感の輪郭が、少しずつはっきりしてきました。
次の章では、
この「我慢」や「抑制」という観点から見たときに、
作品の中で描かれている主人公像が、どのように見えたのかを書いてみたいと思います。
4. できる人ほど、奢らず我慢しているものだと思う
私の感覚では、いわゆる「できる人」「成果を出している人」ほど、
自分の力を誇示することに慎重で、むしろ意識的に我慢しているように見えます。
自分が正しいと思っていても、あえて一歩引く。
言い返せる場面でも、飲み込む。
相手が間違っていると分かっていても、その場では譲る。
そうした選択を、感情ではなく戦術として取っている人は少なくありません。
これは謙虚さや美徳というよりも、
組織の中で生き残り、成果を出し続けるための現実的な判断だと思っています。
中途半端なエリートほど、正しさや能力を前面に出してしまい、
その瞬間に反発を招いたり、足元をすくわれたりする。
だからこそ、
本当に状況を分かっている人ほど、奢らない。
奢らないどころか、必要以上に頭を下げたり、
ときには卑屈に見える振る舞いを選ぶことすらあります。
もちろん、すべての場面で我慢が正解だと言いたいわけではありません。
どうしても譲れない場面や、強く出なければならない局面もある。
ただ、それを使うタイミングを誤らないために、
多くの時間を「抑える側」に費やしているのが、現実のエリート像だと感じています。
この感覚を前提にすると、
本作の主人公の振る舞いには、どうしても引っかかる部分が出てきました。
能力があり、判断も正しく、結果も出す。
それにもかかわらず、
「我慢している時間」や「飲み込んでいる感情」がほとんど見えてこない。
そのため、主人公が常に正面から進み続けているように見え、
結果として、少しずつ現実感が薄れていったように思います。
次の章では、
この感覚がどのように「無敵感」につながっていったのか、
もう少し具体的に書いてみたいと思います。
5. 本作の主人公に感じた「無敵感」と、その理由
ここまでに書いてきた「我慢」や「抑制」という視点から読み返してみると、
本作の主人公には、次第にある種の無敵感のようなものを感じるようになりました。
もちろん、主人公が常に万能で失敗しない、というわけではありません。
捜査が難航する場面もありますし、周囲と衝突することもあります。
ただ、それらの出来事が、主人公自身にとって決定的な傷や変化として残っていないように見えるのです。
物語の中で主人公は、有能で、信念があり、行動力もある人物として一貫して描かれています。
組織の中で浮いているように見える場面はあっても、最終的には正しさを証明し、結果を出す。
その積み重ねによって、「この人は最終的に負けない」という印象が強まっていきました。
この無敵感は、
単に主人公が強いから生まれているものではないように思います。
むしろ、失敗や葛藤が物語上のイベントとして処理され、本人の内部に残らないことが原因ではないでしょうか。
本来であれば、
強さと引き換えに失われるものや、判断の代償として背負うものがあってもおかしくない。
しかし、本作ではそうした重さが、あまり主人公に蓄積していかないように感じられました。
その結果、
主人公が置かれている状況がどれほど過酷でも、
「最終的には乗り越えるのだろう」という安心感が先に立ち、
緊張感が少しずつ薄れていったように思います。
この感覚は、1作目ではそれほど強くありませんでした。
むしろ、物語の暴力性や展開の重さによって、
主人公も含めて登場人物全体が危うい場所に立たされている印象がありました。
しかし、2作目、3作目と読み進めるにつれて、
主人公の立ち位置が固定され、
「この人はここから大きく崩れない」という前提が、
物語の中で暗黙の了解のようになっていったように感じます。
次の章では、
この無敵感について、「それ自体が悪いのか」という点を含めて、
もう少し整理してみたいと思います。
6. 無敵な主人公が悪いわけではない
ここまで「無敵感」という言葉を使ってきましたが、
まずはっきりさせておきたいのは、無敵な主人公そのものを否定したいわけではないという点です。
物語の中で、圧倒的な力を持つ人物が活躍すること自体は、決して珍しいことではありませんし、
読者にとって分かりやすいカタルシスにもなります。
実際、無敵の主人公を最後まで楽しめる作品もたくさんあります。
また、このシリーズの主人公に対して、
「かっこいい」「頼れる」「安心して読める」と感じる読者がいることも、ごく自然なことだと思います。
そうした感想を否定したい気持ちは、私自身まったくありません。
私が引っかかっているのは、
無敵であることそのものではなく、その描かれ方の中途半端さでした。
もし最初から最後まで、
主人公が完全に超越した存在として描かれているのであれば、
読者が共感できなくても、それはそれで一つのスタイルとして成立します。
むしろ、振り切った描き方には、潔さすら感じるかもしれません。
一方で本作では、
主人公に過去の傷や葛藤、人間臭さが与えられています。
それ自体は、読者が感情移入しやすくなる要素でもあります。
ただ、その人間臭さが、
主人公の判断を誤らせたり、立場を危うくしたり、
取り返しのつかない結果につながるところまでは踏み込まれていない。
そのため、「共感できそうで、でも崩れない」という状態が続いているように感じました。
この点については、
「そこまでの重さを物語に求めていない」という読者も、きっと多いと思います。
そうした読み方が間違っているわけではありません。
あくまで私は、
主人公に与えられた設定や示唆がある分、
そこから生まれるはずの揺らぎや代償もあるはずで、
2作目以降でそれを見てみたかった、というだけです。
次の章では、
その「示唆されたまま残っている要素」の一つとして、
1作目で描かれた“あるリスク”について触れてみたいと思います。
7. 1作目で示された“リスク”が、その後どう描かれたか
1作目の『ストロベリーナイト』の中で、私が特に印象に残っているのは、
「犯罪者に共感できてしまうことが、刑事としてのリスクになる」
という示唆です。
主人公は、被疑者や加害者の内面に踏み込む力を持っている人物として描かれています。
その視点は捜査において武器になる一方で、
一線を越えてしまう危うさもはらんでいる、という描かれ方がされていました。
この設定は、とても魅力的だと感じました。
刑事として有能である理由と、その有能さゆえの危険性が、同時に提示されていたからです。
「この先、この共感性がどこかで主人公自身を追い詰めるのではないか」
そんな予感を持たせる終わり方だったように思います。
ところが、2作目以降を読み進める中で、
このリスクが実際の問題として顕在化する場面は、ほとんど描かれませんでした。
主人公は引き続き犯罪者の心情に踏み込みながら、
それによって判断を誤ったり、取り返しのつかない失敗をしたりすることはありません。
共感性はあくまで能力として機能し続け、
刑事としての立場を揺るがす要因にはなっていないように見えました。
もちろん、これは物語の選択として間違っているわけではありません。
リスクを強調しすぎれば、シリーズ全体が重くなりすぎる可能性もあります。
読者の読みやすさを考えれば、
あえて踏み込まなかった判断も理解できます。
ただ、1作目であれほど印象的に提示された要素だったからこそ、
私はどこかで、
「この共感性が裏目に出る瞬間」
「主人公自身が迷いや後悔を抱える展開」
を見てみたかった、という気持ちが残りました。
結果として、
示唆されたリスクが物語の中で回収されないまま進んでいくことで、
主人公の立ち位置はより安定し、
前章で触れた「無敵感」が強まっていったように感じています。
次の章では、
この安定した主人公像と、
作中で描かれる「人間臭さ」とのズレについて、
もう少し具体的に書いてみたいと思います。
8. 人間臭さとして描かれている描写に感じた違和感
本作の主人公は、決して感情のない存在として描かれているわけではありません。
部下を気にかける場面もあれば、上司や先輩刑事と衝突する場面もあり、
物語の中では「人間らしさ」や「不器用さ」として提示されている描写も多くあります。
それでも、読み進めるうちに、
私はその人間臭さに対して、どこか噛み合わない感覚を覚えるようになりました。
引っかかったのは、
それらの描写が主人公の内面を深める方向に作用しているというより、
人間味を“補足的に足している”ように見えたことです。
例えば、部下に慕われている様子や、
先輩刑事と意見が対立する場面は、
主人公が孤立せず、周囲と関係を持っていることを示す役割を果たしています。
ただ、その関係性が、主人公の判断を揺らしたり、
価値観を変えたりするところまで踏み込まれているかというと、
そこにはあまり描写が及んでいないように感じました。
衝突はあっても、すれ違いは長引かない。
意見の違いは提示されても、互いの信念を深く理解し合う過程は省略される。
結果として、やり取りは出来事として消化され、
主人公の中に「残るもの」があまり見えてこないのです。
そのため、人間臭さが、
葛藤や迷いとして積み重なっていくのではなく、
キャラクターを親しみやすく見せるための要素として配置されているように感じられました。
これは、物語としてのテンポや読みやすさを考えれば、
ごく自然な選択なのかもしれません。
多くの読者にとっては、むしろ安心して読める要素でもあるでしょう。
ただ私自身は、
主人公が持つ設定や立場の重さを考えると、
その人間臭さが、もう少し痛みや矛盾として表に出てきてもよかったのではないか、
という気持ちが拭えませんでした。
人間臭さが描かれているからこそ、
それが物語の中でどのような代償や変化につながるのかを、
つい期待してしまったのだと思います。
次の章では、
こうした違和感が、短編集『シンメトリー』でどのように強まったのかについて、
触れてみたいと思います。
9. 短編集『シンメトリー』で強まったファン向け感
こうした違和感が、はっきりとした形になったのが、
短編集である『シンメトリー』を読んだときでした。
短編という形式そのものが悪い、というわけではありません。
短い分量だからこそできる切り口や、
一つのテーマを鋭く描ける良さもあります。
シリーズ作品において短編が挟まれること自体も、決して珍しいことではありません。
ただ、今回の短編集については、
「すでにこの主人公が好きな読者」を前提に組み立てられている
という印象を強く受けました。
物語はテンポよく進み、
主人公の有能さや存在感も、これまで以上に分かりやすく描かれています。
一方で、主人公の内面や立ち位置が大きく揺らぐような展開はほとんどなく、
短編であるがゆえに、そのまま読み切れてしまう構成になっていました。
結果として、
これまで積み重なってきた違和感が解消されることも、
逆に決定的な変化として表出することもなく、
「このシリーズは、こういう形で続いていくのだな」
という感覚だけが残りました。
個々のエピソード自体は、
完成度が低いわけではありませんし、
ファンであれば楽しめる内容だと思います。
ただ私にとっては、
物語が前に進むというよりも、
既に確立された主人公像をなぞっているように感じられました。
ここまで来て、
最初に感じていた「あれれ?」という感覚の正体が、
ようやく自分の中で言語化できた気がします。
それは、
シリーズが進むにつれて、
主人公が変化する存在ではなく、
安定した型として扱われるようになった、という違和感でした。
次の章では、
それでもなお、1作目の『ストロベリーナイト』が
強く印象に残っている理由について、改めて触れてみたいと思います。
10. それでも、1作目『ストロベリーナイト』が印象的だった理由
ここまで違和感について書いてきましたが、
それでもやはり、1作目の『ストロベリーナイト』が強く印象に残っていることは確かです。
読み終えた直後の感覚は、
「面白かった」というよりも、
**「とんでもないものを読んでしまった」**に近いものでした。
特に、陰惨な暴力描写の強度は圧倒的で、
読者に配慮して薄められている感じがほとんどありません。
不快で、居心地が悪く、それでも目を逸らせない。
そうした描写を真正面から描き切っている点には、
正直なところ、かなりの覚悟を感じました。
また、物語の中で、
読者がある程度思い入れを持った人物が殺される展開も印象的でした。
その出来事は単なるショック要素ではなく、
作品全体に重みを与える役割を果たしていたように思います。
この時点では、
主人公も含めて、登場人物たちが
「守られていない世界」に立たされている感覚がありました。
誰がどう転ぶか分からない、
間違えれば取り返しのつかない場所にいる、
そんな緊張感が物語全体を支配していたように感じます。
そのため、主人公についても、
無敵な存在というよりは、
危うさを抱えた人間として読めていました。
能力や信念があるからこそ、
それがどこで裏目に出るのか分からない、
そんな不安定さが、物語に奥行きを与えていたと思います。
後の作品と比べると、
1作目はまだ、主人公像が固まりきっていない段階だったのかもしれません。
だからこそ、
読者としても先が読めず、
強く引き込まれたのだと思います。
この1作目の読後感が強烈だったからこそ、
シリーズを通して読み進める中で感じた変化や違和感も、
よりはっきりと意識されるようになったのだと思います。
次の章では、
ここまでの感想を踏まえて、
改めてこのシリーズが自分に合わなかった理由を整理してみたいと思います。
11. このシリーズが合わなかった理由を振り返ってみる
ここまで振り返ってみて、
このシリーズが自分に合わなかった理由は、
特定の要素が気に入らなかった、という単純な話ではなかったのだと思います。
エリート女性刑事が主人公であること。
物語の中で成果を上げ続けること。
ある程度の無敵感があること。
そのどれもが、単体では問題ではありません。
ただ、
主人公に与えられた設定や示唆の重さに対して、
そこから生まれるはずの揺らぎや代償が、
物語の中であまり描かれなかったこと。
それが、読み進めるにつれて違和感として積み重なっていったのだと思います。
1作目では、
暴力性や展開の危うさによって、
登場人物全体が「守られていない世界」に立たされている感覚がありました。
その緊張感が、主人公の有能さや共感性を、
強みであると同時にリスクとしても感じさせてくれていたように思います。
一方で、シリーズが進むにつれて、
主人公像は安定し、
変化する存在というよりも、
一定の型として描かれるようになっていきました。
その結果、物語は読みやすくなった一方で、
私にとっては、先を期待する余地が少なくなっていったように感じます。
これは、
作品としての方向性が間違っている、という話ではありません。
むしろ、多くの読者にとっては、
安心して楽しめるシリーズとして成立しているのだと思います。
ただ私自身は、
1作目で感じた緊張感や不安定さをどこかで引きずってしまい、
それが回収されないまま物語が進んでいくことに、
少しずつ距離を感じるようになっていきました。
このシリーズが合わなかった理由は、
その点に集約されるように思います。
次の章では、
こうした感想も含めて、
「合わなかった」という受け取り方そのものについて、
もう少しだけ触れて締めたいと思います。
12. 合わなかった、という感想も一つの受け取り方として
ここまで書いてきた感想は、
あくまで私個人がこのシリーズを読んで感じたことを整理したものです。
作品そのものの価値を決めたり、
他の読者の受け取り方を否定したりするつもりはありません。
同じ作品を読んでも、
どこに魅力を感じるか、
どこに引っかかりを覚えるかは、人それぞれ違います。
このシリーズを心から楽しめた人がいる一方で、
私のように途中から距離を感じてしまう人がいても、
どちらも自然な反応だと思います。
今回感じた違和感も、
「この作品が悪い」というよりは、
「今の自分が、こういう描かれ方に対して敏感になっていた」
という側面が大きいのかもしれません。
それでも、
読み終えたあとに残った感覚をそのまま流してしまうのではなく、
一度立ち止まって言葉にしてみたことで、
自分が物語に何を求めているのか、
どんな描かれ方に引っかかりやすいのかが、
少し見えてきた気がします。
合わなかった、という感想も、
作品と真剣に向き合った結果として生まれるものです。
そうした受け取り方も、
読書の一つのかたちとして、
許されていていいのではないでしょうか。
この文章が、
同じシリーズを読んだ誰かにとって、
「自分も少し似たことを感じていたかもしれない」
と思い返すきっかけになれば幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※この記事で触れた『ストロベリーナイト』シリーズについては、
私とは違った受け取り方をする人も多いと思います。
一作目には特に強い部分もあり、
気になる方は実際に読んで判断してみてください。
→ ストロベリーナイト(シリーズ)