どうも、よだかです。
今回紹介するのは、養老孟司さんの「自分の壁」です。
養老孟司10冊読破企画の3冊目!
「考えるための前提となっている思考を疑う」
このスタンスが一貫して書かれています。
自分の意識というものがどれくらい信用できるのものなのかを考えさせてくれる本書。
読んでみると面白いほどに思考が回ります。
頭の中身を引っ掻き回してくれる素晴らしい1冊でした!
内容と考えたことをまとめていきます。
個性は最初から持っている
個性を育てる教育が叫ばれて久しいですが、実はこれは人間の性質と矛盾しています。
そもそも、個性とはなんなのでしょうか?
人と違うことが個性だというのなら、全くもって理解不能な行動や思考をする人こそが個性豊かな人となります。
筆者の語るエピソードに、精神科の患者の話があります。
その患者は荒唐無稽な話を繰り返し、とてもまともなコミュニケーションが取れる状態ではありません、
その患者の在り方すらも個性だとするならば、人は共同体を保つことができなくなってしまうでしょう。
自分の個性を見つけるには、人と違うことを探すというアプローチはふさわしくありません。
むしろ、人と同じところを探すことこそが大切です。
日本に根ざす文化の特徴として、自分で決めることが少ないというものがあります。
これまでも、それで上手く共同体が機能してきたのです。
ところが、西洋の個人主義が入ってくると、自分のことは自分で決めるのが良いことであるという風潮が強まりました。
その結果、個人の境界をはっきりさせなければならなくなったのです。
自分の意見を持っていない人・伝えられない人は、半人前扱いされることとなりました。
あなたは、どこまでが自分だと信じられますか?
自分の持っている意見が自分オリジナルのものであるというのは、ほとんどが思い込みです。
それでも、いろいろなことと戦い抜いて、最後に残った僅かなものがあるはずです。
それが本当の意味での”自分”なのです。
筆者が”自分”を意識したのは、30代を過ぎた頃、尊敬する大学の教授からの指示を受け止められなかったことがきっかけだと述べています。
「その仕事は、別の人に任せるべき。君のやる仕事じゃないよ」との旨の言葉に、筆者は心の中で逆らいます。
このやりとりの後に、自分が自分であるということを意識し始めています。
この部分は、他の本でも度々語られています。
筆者が自身の思考を紡ぎ出すきっかけとなった出来事の一つです。
個性とは後から身につけるものではなく、自分の中に初めから存在する揺るぎないものなのです。
それを見出すには、多くの普通に触れて、それらと馴染まない部分を洗い出していくことが必要です。
自分の外側にあるものを戦い抜いて、それでも譲れずに残ったものが”個性”です。
押さえつけようとしても、決して抑えられないものが誰にでも一つはあるものです。
どこまでが”自分”なのか?
自分とそれ以外の境界を決めているのは”脳”です。
脳のある部分が機能を停止すると、自分と外部の境界が認識できなくなります。
「自己の領域」を決めているのは「空間定位の領野」と呼ばれています。
脳卒中を起こしたジル・ボルト・テイラーという研究者が、自身の体験談をまとめた本があります。
そこでは「自身の体が溶けて液体のように感じた」そうです。
自分の体と他のものの区別がつかない、世界と一体化した感覚。
テイラーの記録は書籍化されていて、「空間定位の領野」に障害を負い、回復した稀有な症例を知るのに役立ちます。
ここで知っておいてほしいのは「自分」とは「現在位置の矢印」のようなものということです。
頭の中にある地図の上にポツンと存在する矢印。
その矢印は、方向を示しています。
世界を認識する中に、方向だけを示す矢印が置かれているイメージですね。
人は成長するたびに、その地図の方が詳しくなっていきます。
自分が認識する世界のどこに自分を置くのか。
そして、どの方向を向くのか。
自分と世界を区別することができるのは「空間定位の領域」が「矢印の位置」を決めてくれているからなのです。
思考の土台
日本人の特徴として「頭の中は自由だ」と思っていることが挙げられます。
「頭の中なら、どんなことを考えてもそれは実害はないでしょう」と考えるのが日本人の思考パターンで、その点は多くの人が共感してくれることと思います。
しかし、世界の国々と比べると、それは当たり前ではないのです。
頭の中に思い浮かべただけでも罪になると考える文化も存在するのです。
日本に暮らしていると意識しにくいことかもしれません。
個人の文化背景は本当に多様で、自分が考え事をする土台すらも当たり前ではないのだということを知る良い例です。
「実害ないだろう」ということを平気で言えるのは「現実的」で良いだろうと思うかもしれません。
けれども、ここには落とし穴があります。
「どっちに転んでも良いとは言えない」という問題に対して、このスタンスでは答えを出せなくなってしまうということです。
どんな思考法にも一長一短があるということですね。
意識は自分をえこひいきする
「意識が自分をえこひいきする」という件も興味深いです。
「口から出したツバを汚いと思うのはなぜ?」
ある子供の素直な質問です。
この問いからは、「えこひいき」を考える面白い洞察が導かれます。
つまり、「自分から切り離されたものは”汚い”と認識してしまう」ということ。
そして、「自分の一部である限りは、それを無意識に特別扱いしている」ということです。
自分の口の中にある唾を”汚い”とは認識する人はいません。
ところが、口から出た途端に「お前は汚い」と認識されてしまうのです。
水洗トイレの普及にも同じことが言えます。
自分の体から出たものは、直ちに汚いものとして認識される。
だから、目の届かないところに追いやってしまいたい。
水洗トイレでサーっと流せしてしまいたいのは”えこひいき”が働いているからとも言えます。
自分とそれ以外を区別しているのは、あくまで思い込みなのです。
個人主義を突き進めていくと、排除の文化が形成されてしまいます。
大切なのは、世間と折り合いをつけて、曖昧なものも曖昧なままで受け止める力を育むことです。
”自己”という幻想
”自己”とは、明治以降に日本に入ってきた「西洋近代的自我」が生み出した概念です。
夏目漱石は、晩年の作品やその言葉の中で、日本文化と”自己”という概念の相容れなさを匂わせています。
彼が「則天去私」という言葉を残してこの世を去ったことからも、そのギャップを感じていたことが分かります。
日本の精神の根底には「タテマエの文化」があります。
例え本当のことが分かっていたとしても、それを敢えて言わないでおくことでお互いに気持ちよく過ごす配慮です。
西洋思想がもたらした個人主義は、あらゆる場面で”自己”の在り方を問われます。
これは、日本人の感覚からすると、非常に苦しいものです。
科学的なものの見方にも同様のことが言えます。
科学自体も西洋的思考をベースにしているので、科学的なものの見方が絶対善だという考え方自体が、もはや思考停止と同義なのです。
そもそも、誰かが観測したことから”主体”を抜いて、誰が観測しても同じように再現されるという前提が科学にはあります。
科学でものを見るということ自体が”主体”の不在なのです。
実は、科学ではいまだに”意識”を定義することができていません。
ここにおいて矛盾が生じます。
それは、「最初に観測した”意識”はどこにあるのか?」ということです。
科学で定義できない”意識”が観測した事象とは一体何なのか?
ここに「科学で考えることの落とし穴」があり、ひいては”自己”というものの不確か差が証明されてしまうのです。
私たちが拠り所にしている”自己”とは、不確かなものなのです。
虚構を信じられることにこそ、人の本質があるのだと言えます。
現代に必要なのは「参勤交代」
身体性が失われたため、様々な問題が起こっているという主張が筆者の根底に流れています。
身体性を回復するための手段として「参勤交代」が提案されています。
これは「都会に住む人が1年のうち1、2ヶ月を田舎で生活する制度を作る」というものです。
私自身、この主張にはとても驚きましたが、やる価値は充分にあると思います。
身体性を取り戻すには、兎にも角にも体を使うこと一択です。
ところが、制度によって矯正されない限り、ほとんどの人は行動しません。
人を動かすのは、強烈な感動体験くらいのものです。
いくら身体性の喪失が、今日の課題を生み出していることを力説されても、多くの人はこのまま変わらない生活を送り続けるでしょう。
本気でこの国を変えたいと思っていても、その行動はこれまで通りなのです。
人は自分をえこひいきする生き物ですから。
厳しい言い方にはなりますが、結局は自分が動いていないだけなのです。
そこに焦点を当てて本気で行動できる人はほとんどいません。
制度という強制力を持ってして、しかも大勢を一度に行動させて、共同体としての安心感を持たせつつ、身体性の価値を認識させるというフロー描いてみましょう。
現代版「参勤交代」は、非常に理に適った方法であると感じませんか?
1日10分自然のものを見よう
”脳”は楽をしたがります。
物事を受け取る時も、受け手である自分が勝手にイメージを作り出していることがほとんどです。
本書では”メタメッセージ”という言葉が出てきます。
この言葉は、身の回りに溢れる情報が、世界の全てであるように錯覚してしまう可能性を示唆しています。
メディアの流す情報は、世の中の出来事の一部を切り取っているに過ぎません。
けれども、情報を受け取る側は、その切り取られた窓の一部から全体像を勝手に組み立ててしまうのです。
そこには、その思考を疑う余地はありません。
受け取る情報の審議をいちいち疑っているようでは、キリがありませんよね。
考えているいるつもりで、その実、”脳”は楽をしているのです。
それをよくよく分かっている筆者は「楽をしないようにしよう」と常々自分に言い聞かせます。
答えのない問いに挑み続けるためには、精神的なスタミナが必要です。
頭が良くなりたければ「1日10分、自然のものを見なさい」と筆者は言います。
答えのないもの、それに向き合い続けたからといってどんな価値が生まれるか分からないものに只々向き合い続ける。
人という生き物に授けられた”考える能力”を失わないで済む方法が、自然と向き合うことなのだと感じました。
人はシステムの一部
最も素敵だなと感じたのは「状況と仕事は一体である」という部分です。
自然と自分が一体であるということが分かれば、どんな仕事であっても、その主体を自分に置くことができるようになります。
「負荷は生の実感である」
「厄介な状態と向き合うのも仕事の一部」
「仕事というもの自体が、本質的に”個”をつっぱるわけにはいかないもの」
モチベーションは自分の内側から湧いてくるものだと信じて、自分の人生を一生懸命に生きる。
大きなスケールで自分を手放して初めて、自分という存在を知ることができます。
焦ってジタバタしも仕方がない。
目の前にあることを粛々とやる。
たくさん経験を積むことで、自分が飲み込める現実のサイズが分かるようになります。
このサイズ感を掴んだら、また新しいものに挑んでみる。
自分自身に向き合うというのは、自分のサイズを知ることの繰り返しです。
自分の器を広げていくことが、世界に対して自分の現在位置を示し続けることにつながるのではないでしょうか?
まとめ
最後まで読んでくださってありがとうございます。
自分の壁を作っているのは自分。
その壁を生み出しているものの正体とその発生の歴史。
正体が分かれば、後はそれと向き合い続ける努力をするだけ。
シンプルゆえに難しい。
けれども、それに挑み続けたくなる。
「負荷は生の実感である」という言葉をこれからも大事にしていきたいです。
おすすめの本ですので、ぜひ読んでみてください。
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