どうも、よだかです。
今回紹介するのは、養老孟司さんの「真っ赤なウソ」です。
養老孟司10冊読破企画の6冊目!
本書の発刊は2004年。
「バカの壁」が発刊された翌年です。
宗教、科学、マスメディア、死ぬことと生きること、人の欲望。
様々な切り口から「物事は変わり続ける」ことを伝えてくれる本書。
2軸の対立を見出し、世の中のウソを指摘していく痛快さがあります。
「ウソ」に覆われた世の中から「本当」のことを見つけ出すきっかけを掴みに行きましょう!
それでは早速内容と感想をまとめていきます。
世の中の歪み
筆者は「バカの壁」が大ヒットしたのは「社会という生態系がおかしくなっているから」だと述べます。
↑「バカの壁」についてはこちらの記事を読んでください。
筆者としては、当たり前のことを言っているだけ、自然の摂理に乗っ取った考えを示しただけという認識だったのです。
「バカの壁」に書かれていることは、筆者にとっては極々当たり前のことだったのかもしれません。
ところが、その考えが世の中に出るや本がバカ売れした。
筆者はこの状況を見て「こんな当たり前のことをみんなが新鮮だと感じるのか」と受け取った。
そのギャップに驚いて考察を進めたという流れです。
この指摘は、世間の風潮を掴むのに非常に役立つ視点です。
ある本が売れるということは、それを世間が求めているということ。
何年か前に「君たちはどう生きるか」の再版が大きな話題になりました。
その波に乗って、私もその本を読みました。
池上彰さんが、この本が売れる社会の背景にある問題について考察していたこともよく覚えています。
池上さんは「君たちはどう生きるか」が出版された当時は戦争に向かう時代だったという旨の解説をしていました。
私は初めて「本が売れるということが、時代の流れを読み解くための手段となる」ということを知ったのです。
読書への向き合い方に大きな変化をもたらしてくれた出来事です。
キリスト教VS西洋自然科学
養老孟司さんお馴染みの「二元論」からのアプローチ。
人の存在をは「不変である」という考えは、近代の西洋思想がベースになっています。
ここで理解しておきたいのは宗教と科学が補完関係にあるということです。
19世紀、ダーウィンが掲げた「進化論」は教会の原理に反するものでした。
そこでダーウィンが観察と実験によって穴のない照明をしなければならなかった。
当時は、「聖書に書いてあるから」という一言で、ほとんどのことが一蹴されてしまう時代です。
教会を納得させるためには、目の前で見せて多くの人を説得する必要があったのです。
こういうことを踏まえると、科学が宗教の解毒剤であったと言えます。
教会という手強いライバルがいたからこそ、科学は力を磨くことができたのです。
強力なライバルは自分を引き上げてくれるという真理にも通ずる出来事でsすね。
科学の力が強くなるにつれて、宗教の力は弱くなっていきます。
科学が”個”を消して、宗教は”個”を拠り所とする。
両者のスタンスの違いはありますが、どちらも”個”があるという前提に立っているという点は興味深いですね。
一つのものを設定して、それ対するアプローチが違うだけ。
宗教と科学はコインの裏表であって、そこから派生した様々な学問や考え方は、元を辿れば一つのところに帰結するのです。
そう考えると、考え方の違いで争っていること自体が意味のないことに見えてきます。
いずれ誰かが思いつく
本当に独創的なことであれば、その考えは誰にも理解されない。
ゆえに、真に独創的なことは共同体の中では邪魔になる。
人々が共に生きていくためには、人に分かること、共通認識、同じであることを作り出せるのが良いことです。
あらゆる発想やそれに伴ってつくられる発明品は、必ず再現性を備えています。
誰かの役に立たなければ、誰かの理解を得なければ世に出て広まることはありません。
世に出て広まるということ自体が、そのものの価値を認める証拠になります。
人が分かることは、いずれ誰かが思いつく。
だからと言ってその発想に価値がないわけではありません。
心の内では皆気づいていることを誰にでも分かる形にしてくれるのが言葉の持つ力です。
生き物の本質として変わり続けることが挙げられますが、言葉はその本質に逆らいます。
その瞬間瞬間を切り取って保存するからです。
「変わる」という言葉ですら、その本質から離れています。
なぜなら「変わる」という現象を「変わらない」言葉で定義しているからです。
言葉の持つ力とその限界。
それでも言葉に縋らなくてはならない矛盾。
悲観しろと言いたいのではなく、なんとなく可笑しな感じがしますね。
言葉には限界があるけれども、その限界を知った上でそれでもできることをしていくという心構えが大事なのです。
霊魂不滅VS諸行無常
キリスト教は霊魂不滅の思想。
「変わらない私がある」ということがその考え方のベースです。
西洋近代的自我に通ずるところがあります。
一方、仏教は諸行無常の思想。
「全てのものは変わり続ける」ということが考え方のベースです。
日本的なものの考え方に深く影響を与えています。
近代化に伴って、西洋近代的自我を受け入れてきた日本人。
文化の根底には諸行無常があるのに、表面を覆うのは霊魂不滅。
日本古来の精神を大切にしながらも、西洋の文化や学問を取り入れて両者を調和し発展さえようという試みの中で、いつの間にか日本は一神教型の考え方に染まってきています。
問題なのは、ほとんどの人がそのことに気づいていないことです。
我々が使っている思考の前提を疑うことは大変難しい。
しかし、「霊魂の不滅」か「諸行無常」か、どちらの前提を取るかでやることが全く違ってきます。
終点になったことはあるか?
終点とは、責任を負う立場のこと。
誰かの健康や命に対して直接の責任を負う立場を経験すると、否が応でも”自我”と向き合うことになります。
主体に対して直接の責任を負う立場になって初めて、人はその責任と向き合う体験をします。
現代の若者には、本質的な意味でこの責任を取る立場の仕事がなかなか回ってこない。
いつまで立っても若者の精神的成長が見られないのは、この点に原因があります。
「やってみて初めて分かる」
やりもしないうちから知識だけを蓄えて、やったかのように勘違いをしている。
調べれば分かることの多い現代で、直接やることの価値は随分軽く見積もられてしまっています。
人間は楽をしたい生き物なので、自分でやらなくても良いことや他人に委ねられることは、積極的に手放していきます。
けれども、それと引き換えに「自分自身で知る・触れる」経験はどんどん失われていきます。
結局のところ、最終的なところを決めるのは、社会に決められた「外的な自己」です。
社会に求められる役割をきちんと自覚して、そこに対する責任を見出すのが仕事するということなのです。
若者に「責任を考える立場」の仕事を与えることで、世の中とのつながりを実感させる必要がありそうです。
メディアが言葉を軽くした
テレビに流れす様々なニュース。
雑誌やラジオでも世間の実情が伝えられています。
これらの現実味は一体どれほどものなのでしょうか?
その中から自分にとってふさわしい情報を選ぶ力、あなたには備わっていますか?
どんな基準でそれらの情報を選別しているのか、自覚していますか?
それすらも自覚できなくさせた責任はメディアにあります。
言葉が溢れるほど、それぞれに重みが分散していきます。
「言葉が軽くなる」とはそういうことです。
情報を発信するメディアがそのことを狙っていたわけではないかもしれませんが、、、。
社会の原点は「契約」です。
言葉で約束をすることで、そこには一定の強制力が生まれました。
つまり、言葉が行動を縛ってきたのです。
「結婚」などはその最たる例ですね。
生物学的に見れば、番(つがい(で過ごすことのメリットはほとんどありません。
結婚という制度は、ヒトの社会を維持するための仕組みのひとつです。
一夫一妻制以外のルールを持つ国もあります。
そもそも、不倫という言葉ですら個人の倫理観をもとにしているのです。
だからと言って、夫婦関係の破綻によって子供の成長に深刻な影響が出る事態になっては本末転倒です。
ここで論じたいのは、不倫はしても良いということではありません。
どうしても立ち行かなくなったときに、お互いが楽になる選択肢があった方が良い良いということと、社会を維持していくための契約が絶対のものではないかもしれないということをよく考えてみてほしいのです。
「倫理マニュアル」という矛盾
筆者が教官倫理委員会の委員長を務めていた頃のエピソードで、「生命倫理」について資料を目にした時のこと。
その中身を見た筆者は「頭に血が上った」と書いています。
そこにあった言葉が「教官倫理マニュアル」。
これは矛盾した言葉です。
倫理とは個人の中にあるもの。
自分が世間とうまくやっていくための「折り合いをつける力」とも言えます。
それぞれの内側にあるもので、他人や世間がとやかくいうものではありません。
誰かに規定された時点で、それは個人の倫理ではなくなるのです。
対してマニュアルとは、全ての人が同じように再現できるようにする取り決め。
マニュアルというのはルールであり規則です。
この世界で起こることは全てがそれぞれに違っています。
倫理観にマニュアルという考え方を持ち込むのは間違っています。
それは思考を一元化することだからです。
ここにも、「二項対立」でものを考える筆者の思想が見られます。
言葉のひとつひとつがどれほどの重みを持っているのか、私たちは忘れてしまっているのです。
リアリティーを突き詰めたものが宗教
これは非常に興味深い考察でした。
なぜなら「現実性」を表す「リアリティー」という言葉が、観念的なことを扱う「宗教」と合致するはずがないと思ったからです。
これは筆者ならではの思考実験と捉えても良いかもしれませんが、私自身は真剣に考えてみる価値のある課題だと感じました。
順を追ってみていきましょう。
その根拠は、「リアリティー」と対応する「アクチュアリティー」が「事実性、日常性、具体性」という言葉で定義されることにあります。
そこで「リアリティー」という言葉を「真・善・美」と訳しています。
これは人の望む本質を的確に表す言葉です。
お芝居や小説や映画など、人々の間で絶賛されるものは、ファンタジーや虚構の世界です。
そこでは感動を味わう経験が得られます。
ですが、だからと言って「人々が虚構(真っ赤なウソ)を求めている」のかというとそれは違いますね。
自分の現実をわざわざ嘘で塗り固めるメリットなんてありません。
宗教とは「ウソから出たマコトだ」という言葉も印象的でした。
感動を集めるための箱が「お芝居」や「映画」などの表現芸術。
それらを突き詰めて最後まで辿っていくと「真・善・美」になります。
「リアリティー」という言葉をどんな角度から見るのか。
私たちが普段当たり前のように使っている言葉は何を根拠にしているのか。
思考を深めたり疑ったりするヒントは、こんなところにも隠れているのですね。
人は終点じゃない
人はシステムの一部。
大きな循環の中にいるのだということを多くの人が自覚できてない。
自分が環境の終点にいるように錯覚しています。
何かを判断するときに、人という種が絶対善のように思い込んでいる。
人間至上主義とまでは言いませんが、それに通ずる考え方がどこか土台になっているということを覚えておく必要があります。
私たちは、環境の一部。
環境を開発し、作り変え、ダメになったら別の環境に手を入れる。
そこには、私たち自身の存続が第一に優先されています。
一旦立ち止まって、私たち自身が引き返す選択肢があっても良いのではないでしょうか?
環境に対して優位に立ちたいという「権力欲」は厄介です。
後から後から無限に湧いてきます。
人に対して発揮できないとき、それは自分よりも弱いものに向かいます。
最終的にその割を食っているのが「物言わぬ環境」なのです。
まとめ
最後まで読んんでくださってありがとうございます。
思考を深めて、考えの土台を疑うヒントが散りばめられた本書。
普段から当たり前のように考えていることに、違う視点から眺めるきっかけをくれる内容です。
違う視点を示した上で「あなたはどう考えますか?」と問いかけてきます。
問いを与えられることに慣れていないのだと痛感させてくれた素敵な1冊でした。
ぜひ、手にとって読んでみてください。
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