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【自分の原則をもつべし!】超バカの壁【養老孟司】

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どうも、よだかです。

今回紹介するのは、養老孟司さんの「超バカの壁」です。

養老孟司10冊読破企画の4冊目。

2006年出版の本です。

仕事と世の中への向き合い方のヒントをたくさん考えさせてくれる内容でした。

一貫しているのは「自分の原則」をもつこと。

これまでの3冊と比べると、使う言葉が優しい印象を受けます。

それでは早速内容と感想をまとめていきます。

仕事の本質

仕事の本質とは何のでしょうか?

それは「社会に空いた穴を埋めること」です。

社会に求められること=不足していることを補う作業です。

人が暮らしていく共同体を維持するための行いと言い換えることもできます。

大切なのは、その穴は”個人”の求める物ではなく”社会”が求めている物であるという視点です。

仕事を生み出しているのは”社会”です。

個人の悩みも大きなスケールでみると、社会の構造や在り方に原因があることが殆どです。

ここを見誤ると、今自分が取り組んでいることの方向性を間違えてしまいます。

仕事を通じて消耗するだけになってしまう人たちがいるのは、この方向性を見誤っているからですね。

日本の社会は、教育システムの構造上、与えられた仕事をこなすことに価値があると認識させられやすいです。

小さな頃からそのように教育されてきたら、思考の落とし穴に気づけないのも無理はありません。

もし仮に気付けたとしても、同じ日々を送る中であっという間に元の状態に戻ってしまいます。

今一度、自分の取り組んでいる仕事が「社会のどんな穴を埋めているのか」を考え直してみることが大切です。

物事の構造が見えてこれば、一度引き受けた仕事を半端な気持ちで行うことは無くなります。

もし仮に、しっかり考え抜いた末に、埋めている穴が穴ではなかったり、土を盛り上げたりしているだけだったのなら、さっさとその場を去るべきです。

人生の時間は有限です。

目的だと思い込まされていることに費やす時間はありません。

世の中の穴を埋めることが自分の価値だと信じること。

世の中の穴を何で埋めるのか?

それは自分の役目なのか?

常に問い続けたいことです。

無職は羨ましい?

昔は、旅館に泊まるときに職業を書く習わしがあって、そこに「無職」と書くと羨ましがられたそうです。

この部分を読んで、仕事をしなくても良い世の中は幸せなのだという認識を得ました。

職業がないというのは、働く必要がないということ。

つまり、社会に穴が開いていないということです。

現実的には、働かなくても良い世の中の到来はまだまだ先だと思いますが、「働く」ということの価値観や考え方が変化していくということは、頭の片隅に入れおきたいですね。

我々には搭載されている”脳は”、本来、安定を平穏を好む性質があります。

安定を求める個体が集まって社会を形成したのに、その社会が不安定を生み、そこに顕現した穴が仕事になるというのは、なんとも面白い話ですね

個体だけで完結しないところに生き物の面白さがありますし、これこそが「人もシステムの一部」ということに通ずるのでしょう。

あなたは”ただの人”

ニートに感謝すれば良い」という言葉も興味深かったです。

これはニートを見下しているのではありません。

自分の価値を勝手に落としている人がいるという事実を指摘しているのです。

あなたは、ただの人です。

特別な人なんて存在しません。

自分のことを「ただの人」だと認識すると、一気に世界が開けます。

自分のことを特別な存在だと思っているから思考が不自由になるのです。

自分自身の正しさなんて、せいぜい60~70%くらいのものだと思っておくくらいがちょうど良いのです。

 

日本人は、その文化的背景から見るに、本来は”自己”をよく知っている民族でした。

”変わらないもの”や”同じもの”を感じ取るアンテナは、高かったのです。

暗黙の了解やタテマエを重んじる文化から、そのことが見てとれます。

進歩とは「平穏になっていくこと」であり、各々が理解されない個性を発揮していくことではありません。

筆者は、問題が起こらないことが重要視されるべきであって、メディアの伝える情報の中に「今日起こらなかったこと」を伝えるコーナーがあっても良いのではないかと提案されています。

衣食足りて礼節を知る

日本人が昔から大切にしている文化のひとつです。

これは、全ての基礎となる考え方です。

そもそも、不足を不足と思うから問題が大きくなるのです。

生きていくだけの最低限のものがあれば、本来はそれで充分なはずです。

人の欲望は無限に膨らんでいきます。

誰かの示す見せかけの価値観に踊らされて、気がつかないうちに欲望は膨らんでいきます。

足りないと思うから足りないのです。

これを克服するのは非常に難しい。

けれども「不足を感じている」と気づくことができた瞬間から、人は変わっていくことができるのです。

いつまでも自分の不足に目が向いてばかりの人は、周りの人に礼節を示すことなどできません。

現代社会においては、不足ばかりに目が向くように操作されています。

ありもしない不足を信じ込まされて、礼節を欠くことのないようにしたいものです。

身体と思考

男女の違いを見ていきましょう。

生物学の観点から見ると「女は身体」「男性は思考」です。

女性は、身体性を重視するため、よく言えば安定感があり、悪く言えば頑固です。

男性は、思考を重視するため、よく言えば柔軟ですが、悪く言えば不安定です。

世間一般に流布している男性・女性論と逆をいく発想だなと感じました。

ここで得た気づきは、物事はそれを見る視点によって解釈が変わるということです。

この言葉自体は、使い古されている感が否めませんが、やはりこの言葉がぴったりです。

”使い古されている”ということは、それだけ多くの場合に適応する普遍性があるということ。

問題は、男女の違いを議論することではなく、その根底にある思考の土台を確かめてみることなのです。

都市化の弊害

都市に人が集まることで、少子化といじめが生まれました。

一体どういう事なのか?

これについて考えていきましょう。

まずは少子化から。

子供中心の教育がなされていない世の中では、当然子育てへの関心も薄まります。

これは、子育てがしにくい社会の体制とは別問題として考えるべきことです。

子育てには手間も時間もかかります。

子供は本質的に自然に近い存在です。

木の手入れにも似た気の遠くなる作業です。

ああすればこうなるというものでもありませんし、すぐに結果が出るものでもありません。

少子化の原因は、自然を本質とする子供という存在と人工を本質とする都市という場所が相容れないことなのです。

 

次は、いじめについて。

いじめられる側にもそれなりの原因があるというスタンスは、公共の場で叫んだら大炎上必至です。

もちろん、全てのいじめに対してこんなことを言うつもりはありませんし、いじめによって心に傷を負う人がいることも事実です。

決して、いじめられる側を傷つける趣旨はないことをご理解ください。

本書で語られるエピソードは「大人のいじめ」です。

他責思考であり、人の話を聞かず、それに気づいていない人のエピソードです。

著者の主観で語られることを抜きにしても、こういう人とは付き合いづらいだろうなぁと思ってしまいました。

いじめるかどうかの選択肢は、もちろん加害者本人の意思によるものですが、他者を排斥したいという気持ちは、共同体で過ごす中では生じるのが当然ではないでしょうか?

その気持ちを行動化してしまうことが問題なのです。

古代ならば、共同体に適応できない人間は、群れを追放されていたことでしょう。

あるいは、追放間近の憂き目にあって、自分の方にも何かしらの責任があるということに立ち返る機会もあったことでしょう。

現代は、共同体が大きくなり過ぎました。

けれども、その共同体から逃げるという選択肢が示されていないのです。

いじめは無くなりません

ならば、そのためのセーフティネットとして「その共同体から逃げる」という選択肢が用意されるべきです。

後ろめたい感覚

後ろめたい」という感覚も日本人独自のものです。

この感覚を持っているがゆえに、行動のブレーキが効くのです。

「お天道様が見ている」という感覚にも近いのかもしれません。

自分以外の存在をイメージして、それに反しないように生きる

これは、東洋的な宗教観にも通ずるものがあるように感じます。

自然の万物に神が宿るという信仰形態がルーツにあることを考えると、「誰も見ていない場所でこそ行動を抑制できる」という日本人の礼儀正しさが、世界の国々からも感心されるのも納得です。

根拠はないのだけれど、これをやってしまってはダメだろう」という個人の中の倫理観がうまく働いてくれている好例ですね。

政治の間違った進行に「待った」をかけるのは宗教の仕事です。

物事のあるべき姿を突き詰めていくと、最終的にはすべて宗教にたどり着きます。

宗教は「存在としてどうあるのが理想なのか」を突き詰めているからです。

実利ばかりを追いかけている政治に必要なのは、宗教からの「待った」の声。

政教分離を謳っているのですから、それぞれが役割分担して、バランスよく世の中の形をより良いものにしていく必要があります。

日本語は読みが中心

日本語は、その成り立ちからして「読み・書き」が中心原則です

このことをよく理解しておかないと、外国語を学ぶときや教育の現場で困ったことが起こります。

日本語を母語として育つと、思考の方法はどうやったって「読み・書き」がベースになります。

ところが、英語などのように「話す」ことが中心原則の言語もあります。

だから、英語圏ではスピーチが盛んに取り入れられていたり、自分の意見を主張することに重きを置く文化が育つのです。

自分たちの使う言語の性質とそれによって育まれる思考の特質というものがあります。

そしてそれは、私たちがものを考えるときの揺るぎない土台となっているのです。

言語の性質そのものにも目を向けていないと、海外の文化を取り入れるときに本来持っていた文化の都のミスマッチが生じる可能性があります。

なぜなら、言語の体系自体が、その国の文化的な背景を作り上げているからです。

そして、文化的な背景もまた言語体系を作り上げる相互補完の関係にあると言えます。

もっとも「読み書き」中心の日本語圏では、当分の間、活字文化が衰えることはないでしょう。

秩序が無秩序を生む

エントロピー増大の法則に則って考えると、秩序と無秩序のいたちごっこをイメージするのは容易いことです。

どこかを押さえつけると、別のどこかがはみ出ることになります。

秩序によって整えられた分、別のどこかで歪みが生じます。

そもそも、整えようとするからいけないのです。

物事の歪みを歪みと認識することが問題です。

もちろん、誰かや何かに危害を加えること自体をそのままにしておくべきではありません。

重要なのは、その歪みを生み出している社会はシステムそのものに目を向けることです。

大きな引きの視点で見れば、その問題がどこから生じてきたのか、あるいは問題として扱うべきことなのかどうかが見えてきます。

「考えなくてもいい」ということではありません

ですが、その問題を「考え続けるべきことなのか」「答えを出さなくてないけないことなのか」を決めるきっかけにはなります。

調査の前提として、そもそも因果関係があるのかどうかを結論づけることだって、立派な解答の一つなのです。

本気でやるべきときに、逃げてはいけない

本書の中で、最も響いた言葉。

「本気でやるべきときに、逃げてはいけない」

筆者が解剖医として勤務しているときに、遺族から殴られたときのエピソードが紹介されていました。

検体として提供された遺体の状況を知った遺族が「検体としての提供なんて聞いていない」との旨で、筆者のもとにやってきたのです。

やり過ごそうとすれば、それも可能だったはずですし、遺族の前に姿を現せば殴られることも充分予測できていた筆者。

結果、筆者は遺族に殴られることになりましたが、その後に遺族たちは帰って行きます。

なんとも言えない深みのあるエピソードです。

筆者は自分から逃げなかったのです。

ここに養老孟司先生の人としての矜持が詰まっていて深く感動しました。

自分の向き合っている現実に一切の言い訳をしないで責任をとる

自分に対する自分の意見を信じ抜く姿勢があったからこそ、人生に最も本気で立ち向かう瞬間を見逃さなかったのだと思います。

きっと、このエピソードの他にも「自分の人生から逃げない」場面はたくさんあったことは容易に想像がつきます。

一時が万事。

どんな場面においても「今、自分は本気で生きているのか」ということを問い続けられる人生を創っていきたいです。

まとめ

最後まで読んでくださってありがとうございます。

本記事にまとめた学びは、本書から得られるごく一部です。

非常に重厚な学びを授けてくれた本書。

折に触れて読み返したいですね。

自分自身の原則をもって生きることの大切さを一貫して伝えてくれる内容です。

おすすめの本ですので、ぜひ読んで見てください。

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