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【映画/感想】『救えない子どもを、映画"システム・クラッシャー"はどう描けるのか』

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こんにちは。よだかです。最近 システム・クラッシャー というドイツの映画を観ました。

超ざっくり言うと、この映画は、養護施設を転々とする9歳の女の子・ベニーと、彼女を取り巻く大人たちの関わりを描いた作品です。

ベニーは怒りの感情をうまく制御できず、衝動的に暴力を振るってしまうことがあります。家庭環境にも問題を抱えており、なぜ彼女が施設で暮らしているのかは、映画の中で断片的に示されていきます。

正直に言うと、観ていて何度もモヤっとしました。
主人公であるはずのベニーに、どうしても同情できない瞬間があるからです。

それでもこの映画は、社会に存在する課題を美化せず、答えも用意しないまま、映画として成立させている点でとても質が高いと感じました。

以下では、私が感じたこのモヤりを軸にしながら、この映画について考えてみたいと思います。

※私はAmazon Prime Videoで視聴しました。
以下は、その感想です。

1. 「良い/悪い」で判断できない映画だった

**システム・クラッシャー**を観終わったあと、
最初に浮かんだのは「これは良い映画だったのか?」という疑問でした。

ただ、その問いを立てた直後に、
そもそもこの映画は、良い/悪いで判断されることを拒んでいる
そんな感覚も同時にありました。

この作品は、いわゆる分かりやすい社会派映画ではありません。
誰かを明確な悪者にすることも、感動的な解決を用意することもない。
観客に対して「こう受け取ってほしい」という答えを、ほとんど示してくれません。

主人公であるベニーは、養護施設を転々とする9歳の女の子です。
彼女の振る舞いは衝動的で、時に暴力的で、見ていて落ち着かない。
事情を知れば理解できそうな気もするのに、
感情としてはどうしても距離を取りたくなる瞬間があります。

その感覚が、この映画を観ていて一番厄介でした。

可哀想だと思った直後に、怖くなる。
理解しようとした次の瞬間に、拒否したくなる。
救われてほしいと願いながら、「正直、関わりたくない」と感じてしまう。

こうした揺れは、映画体験としてはかなり居心地が悪いものです。
でも、この居心地の悪さこそが、この作品の誠実さなのだと思いました。

もしこの映画が、
「社会の問題を描いた良い作品」
「重たいけれど感動できる映画」
として整理されていたら、ここまでモヤモヤは残らなかったはずです。

この作品は、現実を美化しません。
かといって、誰かを断罪することもしない。
問題を分かりやすく説明する代わりに、
現実の一断面を、映画として成立する形でそのまま置いてくる

だから観終わったあとに残るのは、
納得でも爽快感でもなく、
「これは一体、何を見せられたんだろう」という引っかかりです。

私はこの引っかかりを、
消化不良や欠点だとは感じませんでした。
むしろ、安易に評価を着地させなかった点で、
この映画はとても誠実だと思います。

「良い/悪い」で簡単に判断できない。
それでも、確実に何かを考えさせられる。

少なくとも私にとっては、
その一点だけで、この映画は十分に質の高い作品でした。


2. タイトル「システムクラッシャー」が突き刺さる瞬間

**システム・クラッシャー**というタイトルは、観る前から少し引っかかる言葉でした。
どこか乱暴で、冷たくて、人を人として扱っていない感じがする。
少なくとも、温度のある物語につけられる名前には思えません。

映画を観ている間も、この言葉はほとんど前に出てきません。
だからこそ、作中で一度だけ、この言葉が使われた瞬間に、
「あぁ……」
と腹の底に落ちるような感覚がありました。

それは、誰かが感情を込めて発した言葉ではありません。
怒りでも、憎しみでも、断罪でもない。
むしろ、事務的で、説明的で、距離のある言葉として登場します。

この子は、
手がかかるから問題なのではない。
暴力的だから危険なのでもない。

既存のシステムでは処理しきれない存在──
だから「システムクラッシャー」。

そのニュアンスが、一瞬で伝わってきます。

この言葉が残酷なのは、
人格を否定しているからではありません。
むしろ逆で、
善意や努力や制度の限界を、あまりにも正確に言い当ててしまう
ところにあります。

映画の中で描かれる大人たちは、決して無責任ではありません。
施設の職員も、支援者も、関わる人たちは皆、それぞれの立場で真剣です。
できることをやっているし、投げ出そうとしているわけでもない。

それでも、どうにもならない。

「この子を救えない」のではなく、
「この子を組み込めない」。

その事実を、感情を交えずに示す言葉が、
システムクラッシャーという呼称なのだと思いました。

このタイトルは、
観客に向けた挑発ではなく、
映画の内部で起きている現実を、そのまま外に持ち出した言葉です。

だから不快だし、だから刺さる。

観終わったあと、
「このタイトルは強すぎるのではないか」
という気持ちと同時に、
「他にどう呼べばよかったのか分からない」
という感覚も残りました。

この違和感こそが、
この映画が扱っている問題の輪郭なのだと思います。

そして正直に言うと、
私はこの言葉に、単なるレッテル貼り以上の納得感を覚えてしまいました。

その理由については、
この後の章で、もう少し踏み込んで書こうと思います。


3. 主人公ベニーに、なぜ同情できないのか

**システム・クラッシャー**を観ていて、何度も自分の中に浮かんだのが、
「どうして私は、この子に同情しきれないんだろう」
という感覚でした。

ベニーの置かれている状況だけを見れば、同情する理由はいくらでもあります。
家庭環境に問題があり、養護施設を転々とし、大人との関係もうまく築けない。
映画の中では、彼女がそうなってしまった背景も、断片的に示されていきます。

それでも、感情が追いつかない瞬間が何度もありました。

可哀想だと思った直後に、怖くなる。
理解しようとした次の瞬間に、距離を取りたくなる。
「助けてあげてほしい」と思いながら、
「正直、近くにはいたくない」と感じてしまう。

この矛盾した感情が、観ていてとてもつらかった。

普通の映画であれば、
「まだ9歳なんだから」
「環境が悪かったんだから」
という言葉が、観客の逃げ道として用意されます。

でもこの映画は、そうした免罪符をほとんど与えてくれません。

映画の中でベニーは、
注意されても、叱られても、守られても、
同じような衝動的行動を繰り返します。

もちろん、それを「本人の責任」だと言うつもりはありません。
ただ、観ている側としては、
「分かっても、受け入れられない」
という地点に立たされ続けます。

この映画が厄介なのは、
ベニーを「分かりやすい被害者」にもしないし、
「単なる問題児」にもしていないところです。

彼女は、
意地悪で暴力的な存在として描かれます。
同時に、寂しさや不安を強く抱えた子どもとしても描かれる。

どちらか一方に寄せてくれない。

だから観客は、
同情したい気持ちと、拒否したい気持ちの間を
何度も往復させられます。

私は、この「同情できなさ」を、
映画の欠点だとは思いませんでした。

むしろ、
同情できないと感じてしまう自分自身を、映画がそのまま照らしている
ように思えたからです。

誰かを理解しようとすることと、
その人と関わり続けられることは、別の問題です。

この映画は、その距離の残酷さを、
ごまかさずに見せてきます。

ベニーに同情できなかった。
それは冷たい感情かもしれないし、
見たくない自分の一面かもしれない。

でも、この作品は、
その感情を否定することも、正当化することもしません。

ただ、
「そう感じてしまう現実がある」
という事実だけを、静かに置いてきます。

だからこそ私は、
この映画を観ていてモヤっとしましたし、
同時に、誠実な作品だとも感じました。


4. 一番ハラハラしたのは、赤ちゃんのシーンだった

この映画には、観ていて息が詰まるような場面がいくつもあります。
暴力的なシーンも多いし、感情の爆発に圧倒される瞬間もある。

それでも、私が一番ハラハラしたのは、
ベニーが 作中で信頼を深めた人の家に泊めてもらい、
朝早く起きて赤ちゃんをあやしている場面でした。

暴力も怒号もない。
むしろ静かで、穏やかで、一見すると微笑ましい。

だからこそ、
「何も起きないでほしい」
という気持ちが、これまで以上に強くなります。

この場面でのベニーは、悪意を持っているようには見えません。
赤ちゃんに興味を示し、関わろうとし、
“ちゃんと振る舞おう”としているようにも見える。

それが余計に怖い。

これまでの流れを知っている観客は、
心のどこかで
「でも、きっと何かが起きる」
と分かってしまっている。

そして、その予感は裏切られません。

このシーンがつらいのは、
ベニーが意図的に何かを壊そうとしているわけではないからです。
怒りを爆発させているわけでも、誰かに敵意を向けているわけでもない。

ただ、結果として、
ベニーの期待を裏切る方向に転んでしまう。

ここで初めて、
「危険なのは怒りだけではない」
ということを突きつけられます。

善意であっても、
落ち着いて見えても、
守ろうとする気持ちがあっても、
それだけではどうにもならない瞬間がある。

この場面を観ていると、
ベニーに対する感情が、決定的に揺らぎます。

可哀想だとか、救われてほしいとか、
そういう感情が完全に消えるわけではありません。
でも同時に、
「近くにいたら怖い」
という感覚が、はっきりと形を持ち始める。

そして、その感覚を抱いてしまった自分自身に、
少し戸惑います。

子ども相手に、
こんなふうに線を引いてしまうこと。
距離を置きたいと思ってしまうこと。

この映画は、その戸惑いからも逃がしてくれません。

赤ちゃんのシーンは、
ベニーが「悪い子」だと示す場面ではないと思います。
むしろ逆で、
善意や無邪気さがあっても、危険が消えない現実
を、これ以上ない形で見せてくる場面です。

だからこそ、ハラハラするし、
だからこそ、観ていて一番つらかった。

この瞬間を境に、
私はベニーに対して、
同情と同時に、明確な恐怖を感じるようになりました。

それは冷たい感情かもしれない。
でも、目を逸らせない感情でもあります。

この映画は、
その両方を同時に抱えさせることから、決して逃がしてくれません。


5. 「9歳とはいえ、学ばなすぎる」という感情について

正直に書くと、
この映画を観ているあいだ、何度も頭をよぎったのが
「とはいえ、9歳だよな」
という言葉でした。

まだ子どもだし、
過酷な環境で育ってきたし、
衝動をうまく制御できないのも無理はない。

そうやって、理解しようとする回路はいくらでも用意できる。

それでも同時に、
どうしても消えなかった感情があります。

「……それでも、変わらないな」
「同じところを、ずっと繰り返しているな」
という、居心地の悪い感覚です。

注意されても、叱られても、守られても、
ベニーは同じような衝動的行動を繰り返します。

それを見ていると、
いつの間にか観客であるこちら側に、
期待してしまっている自分がいることに気づきます。

今度こそ、少しは違う行動を取るのではないか。
今度こそ、踏みとどまるのではないか。

でも、その期待は、何度も裏切られる。

ここで生まれるのが、
「9歳とはいえ、さすがに……」
という感情です。

この感情は、かなり言いづらい。

子どもに対して向けるには、
あまりにも冷たい気がするし、
口にした瞬間、自分が間違っているようにも感じる。

でも、この映画は、
その感情が浮かぶこと自体を止めてくれません。

むしろ、
「そう思ってしまう自分は、どこから来たのか」
を、静かに突きつけてきます。

誰かを理解することと、
同じことを何度も繰り返す姿を受け入れ続けることは、
まったく別の負荷を伴います。

理屈では分かっている。
責めるべきではないとも思っている。

それでも、
どこかで線を引きたくなってしまう。

この映画は、
その線引きが生まれる瞬間を、
とても正直に描いているように感じました。

「学ばなすぎる」という言葉は、
評価としては強すぎるかもしれません。
でも、感情としては、確かにそこにあった。

そしてこの感情を抱いた瞬間、
観客はもう、
ただの“理解者”ではいられなくなります。

ベニーを可哀想な存在として眺めることも、
単純に社会の犠牲者として整理することも、
難しくなってしまう。

それは冷酷な目線かもしれない。
でも同時に、
現実の中で多くの人が直面している感覚でもある。

この映画が誠実だと思うのは、
この感情を
「持ってはいけないもの」
として切り捨てなかったところです。

否定も、正当化もせず、
ただ、そこに置いてくる。

だから私は、
この章を書きながらも、
今なお少しモヤっとしています。

でも、そのモヤりこそが、
この作品を観た証拠なのだとも思っています。


母親は「毒親に近い」存在として描かれている

この映画に登場する母親については、
「悪役ではない」「理解できる部分もある」
と語られるかもしれません。

けれど、観ていて私が強く感じたのは、
かなりはっきりと“毒親に近い存在”として描かれている
ということでした。

母親は、ベニーに対して暴力を振るうわけではありません。
露骨に冷たく突き放すこともない。
心配している様子もあるし、感情がまったくないわけでもない。

それでも、
親として決定的に欠けている部分が、何度も描かれます。

自分の本当の気持ちを、
ベニーに正面から伝えない。
困難な判断は、保護師や施設の職員にほぼ丸投げする。
大事な場面では、踏み込まずに逃げる。

そして何より、
中途半端な関わり方のまま、希望だけを見せてしまう

この曖昧さが、
ベニーにとってどれほど残酷かは、
観ていて痛いほど伝わってきます。

「一緒に暮らせるかもしれない」
「やり直せるかもしれない」
という期待だけを残し、
現実的な責任は引き受けない。

これは、親として見たとき、
かなり致命的な態度だと思います。

贔屓目に見ても、
良い母親として描かれているとは言いがたい。

ただし、この映画が巧妙なのは、
母親を単なる“無責任な存在”として描いていない点です。

彼女には、
一人の人間としての限界も、確かに描かれている。

もしベニーが、
ここまで激しい衝動性を持っていなかったら、
この母親は育てることができていたのかもしれない。

実際、映画の中では、
彼女はベニーの妹や弟を育てています。

つまり、
母親として完全に養育能力がないわけではない。

それでも、
ベニーだけは引き受けきれない。

この事実が、
結果的に強く印象づけるのは、
「母が壊れている」のではなく、
「この子が、既存の枠組みを壊してしまう存在だ」
という現実です。

私はこの描写を観ていて、
母親もまた、ベニーによって壊されているのだと感じました。

愛情がなかったわけではない。
最初から捨てるつもりだったわけでもない。

それでも、
関われば関わるほど追い詰められ、
逃げるしかなくなっていく。

この構造は、
誰か一人を悪者にして終わらせられるものではありません。

母親は、
確かに毒親に近い存在として描かれている。
でも同時に、
「ベニーと向き合い続けた結果、限界を超えてしまった人」
としても描かれている。

この両立があるからこそ、
母親の存在は不快で、目を逸らしたくなり、
それでも切り捨てきれない。

そしてこの描写が、
ベニーという存在の特異さ――
システムを壊してしまうほどの外れ値性を、
より強く際立たせているように思えま


7. 関わる大人たちが、基本的に「良い人」なのが一番きつい

この映画を観ていて、
後半にいくほどじわじわ効いてくるのが、
ベニーに関わる大人たちが、基本的にみんな「良い人」だということでした。

露骨に冷酷な職員はいないし、
仕事を放棄しているような人もほとんど出てこない。
むしろ、誰もがそれぞれの立場で、
できる限りのことをしようとしている。

施設の職員も、保護師も、
そしてミヒャも、その妻も、
みんな誠実で、真剣で、無責任ではない。

ここで少しだけ補足すると、
ミヒャは、ベニーが学校に通っているあいだ、付き添い役として関わる人物です。
いわば、保護観察官やスクールサポーターに近い立場で、
日常的にベニーと時間を共にし、行動を見守る役割を担っています。

血縁関係はなく、親でも保護者でもない。
それでも、ベニーにとっては数少ない「継続的に関わる大人」の一人です。

だからこそ、観ていてきつい。

もし誰か一人でも、
分かりやすく怠慢だったり、
冷たかったり、
「この人が悪い」と言える存在がいれば、
感情の行き場はあったと思います。

でも、この映画はそうしない。

誰も間違ったことはしていない。
誰も悪意を持ってはいない。
それでも、状況は少しも良くならない。

むしろ、
善意を重ねれば重ねるほど、
行き詰まりがはっきりしていく。

ミヒャは、ベニーに対して、
これまでの大人たちとは違う距離で関わろうとします。
感情的にも近く、真剣で、逃げない。

その姿勢は、観ていて希望のようにも見える。

でも、その希望が長く続かないことも、
どこかで分かってしまう。

個人の献身や覚悟だけでは、
どうにもならないところまで、
ベニーの問題は来ている。

その現実が、
この映画の一番苦しいところだと思います。

善意のある大人がいれば救われる、
という話ではない。
愛情を注げば変わる、
という話でもない。

それでも大人たちは、
目の前の子どもを前に、
「できない」とは簡単に言えない。

この構造そのものが、
とても現実的で、逃げ場がありません。

観ているこちら側も、
いつの間にか同じ立場に立たされます。

「じゃあ、どうすればよかったのか?」
と考え始めるけれど、
答えは見つからない。

誰かを責めても解決しない。
制度を変えれば即座に救われるわけでもない。
個人の努力では、限界がある。

この袋小路感が、
この映画をただの“問題提起”で終わらせない理由だと思います。

関わる大人たちが良い人であるほど、
ベニーという存在が、
どれほど扱いづらく、
どれほど孤立した位置にいるのかが、
際立ってしまう。

そしてそれは、
「誰も悪くないのに、壊れていく」
という、最も受け入れがたい現実を、
そのまま突きつけてきます。

この章を書きながら改めて思うのは、
この映画が描いているのは、
誰かの失敗ではなく、
善意が限界にぶつかる瞬間なのだということです。

だから観ていて、
怒りよりも先に、
疲労感が残る。

そしてその疲労感こそが、
この映画が持っているリアリティなのだと思います。


8. システムクラッシャーは社会が生み出したのか?

ここまで書いてきて、
どうしても避けられない問いがあります。

システムクラッシャーは、社会が生み出した存在なのか?

この映画を観たあと、
そう考える人は多いと思います。
制度が未熟だから、支援が足りないから、
家庭環境が過酷だったから──。

確かに、そうした要因は無視できません。
社会や制度のあり方が、
ベニーをより追い詰めている側面は、間違いなくある。

でも私は、この映画を観ていて、
「それだけでは説明しきれない」
という感覚のほうが、ずっと強く残りました。

理由は単純で、
私は現実の中で、
ベニーのような子どもを知っているからです。

私が仕事で児童虐待に関わっていた頃、
どれだけ環境を整えても、
どれだけ大人が気を配っても、
どうしても噛み合わないケースがありました。

家庭環境を改善しても、
支援の手を厚くしても、
関わる大人が誠実であっても、
それでも破綻してしまう。

そういう子は、確かに存在します。

それを「社会のせいだ」と言い切ってしまうのは、
どこか現実からズレている気がします。

むしろ、
生まれ持った気質や衝動性という“外れ値”が、
既存の枠組みとどうしても噛み合わない

そういうケースが、現実にはある。

この映画は、その可能性から逃げていません。

母親は、ベニーの妹や弟を育てています。
つまり、養育能力がまったくないわけではない。
それでも、ベニーだけは引き受けきれなかった。

関わる大人たちは、基本的に良い人です。
制度も、完全に放棄されているわけではない。

それでも、破綻する。

この積み重ねが示しているのは、
「社会が生んだ悲劇」というよりも、
社会がどうしても抱えきれない存在がいる
という現実なのだと思います。

だから私は、
作中で使われた「システムクラッシャー」という言葉に、
強い抵抗感と同時に、
正直な納得感も覚えてしまいました。

冷たい言葉だと思う。
人を分類し、切り捨てる響きもある。

それでも、
「そう呼びたくなる現場の感覚」
が確かに存在することも、否定できない。

そしてこの映画は、
その言葉を安易な断罪としてではなく、
現実の行き止まりを示すラベルとして提示してきます。

重要なのは、
この呼称が「答え」ではないという点です。

ラベルを貼ったからといって、
何かが解決するわけではない。
ただ、
「ここまで来てしまった」
という地点を示すだけ。

この映画が誠実だと思うのは、
そこから先を、観客に委ねてくるところです。

社会が悪い、とも言わない。
個人が悪い、とも言わない。
救いの物語にも、落とし込まない。

ただ、
こういう存在が現実にいて、
私たちはそれをどう扱うのか

という問いだけを残す。

私はこの問いに、
いまだに明確な答えを持っていません。

でも、答えが出ないまま考え続けること自体が、
この映画と向き合った結果なのだと思っています。


9. それでも、この呼称が必要になる気持ちは分かる

ここまで書いてきて、
私は何度も「システムクラッシャー」という言葉に引っかかり続けています。

冷たい。
乱暴だ。
人を人として見ていないようにも感じる。

だから、この呼称に反発する気持ちも、よく分かる。

それでも正直に言うと、
それを使いたくなる気持ちも、分かってしまう
というのが、私の中で消えない感覚です。

この言葉は、
誰かを貶めるための罵倒ではありません。
少なくとも、映画の中ではそう使われていない。

怒りや嫌悪の表現ではなく、
状況を短く説明するための、非常に事務的な言葉として出てくる。

ここが、この呼称の一番きついところだと思います。

この子が悪い、とは言っていない。
親が悪い、とも言っていない。
制度が失敗した、と断言しているわけでもない。

ただ、
「このケースは、今ある枠組みでは処理できない」
という事実だけを、切り取っている。

現場で考えると、
こういう言葉が生まれてしまうのは、ある意味で自然です。

感情を交えずに状況を共有しなければならない場面では、
どうしても
「何が起きているのか」
を一言で示す必要がある。

そのとき、
個別の事情や背景をすべて含んだ言葉は、使えない。

結果として残るのが、
こうした冷たくて、無機質で、
でもやけに正確なラベルです。

だから私は、
この呼称を「許せる」とは言いません。
でも、
「生まれてしまう理由がある」
ということは、否定できない。

この映画が誠実なのは、
この言葉をヒーローにも、悪役にもしていないところだと思います。

ラベルを貼った瞬間に、
問題が解決するわけでもない。
むしろ、
そこから先が何も見えなくなる危うさすらある。

それでも、
「今はここで立ち止まっている」
という地点を示すために、
人はこういう言葉を使ってしまう。

私はその現実を、
この映画から突きつけられました。

この呼称があることで、
誰かが救われるわけではない。
でも、
現実がここまで来てしまったことを、
誤魔化さずに認めることはできる

たぶん、この言葉は、
使われるたびに違和感を伴うべきものなのだと思います。

慣れてしまったら、
その時点で何かを見失っている。

分かってしまう。
でも、納得しきってはいけない。

この中途半端な立ち位置に留まらされる感覚こそが、
この映画が私に残したものなのかもしれません。


10. 誠実さは、ときに不快な形で現れる

この映画を観終わったあと、
ずっと残っているのは、
「納得できなさ」や「割り切れなさ」といった感覚でした。

分かりやすく感動することもできないし、
誰かを強く糾弾することもできない。
かといって、ただの社会批判として消化することもできない。

正直、気持ちのいい映画ではありません。

でも、その居心地の悪さこそが、
この作品の誠実さなのだと思います。

この映画は、
観客に寄り添ってくるタイプの作品ではありません。
「こう感じてほしい」という誘導も少ない。
分かりやすい正解や救いも用意されていない。

代わりにあるのは、
現実の中に確かに存在する、
どう扱っていいか分からないものを、
そのまま差し出す態度です。

それは、観る側にとってはかなり不親切です。
モヤっとするし、疲れるし、
できれば目を逸らしたくなる。

それでも、この映画は、
その不快さを中途半端に和らげようとしません。

もしここで、
希望のあるラストが用意されていたら。
もし誰かが成長したり、
何かが解決したりしていたら。

きっと観後感は、
もっと分かりやすく「良いもの」になっていたと思います。

でも、それは同時に、
この作品が描こうとしていた現実を、
どこかで嘘にしてしまうことでもあったはずです。

この映画は、
「こういうケースは確かに存在する」
という一点から、最後まで離れません。

救えないことがある。
善意では届かないことがある。
理解しても、受け入れられないことがある。

そうした現実を、
映画として成立する形で提示する。

それは、とても誠実な態度だと思います。
そして同時に、とても不快な態度でもある。

誠実さが、
必ずしも優しさや安心感につながらないこと。
むしろ、
観る側を居心地の悪い場所に立たせ続けること。

この映画は、そのことを、
かなり強い形で示してきます。

私は観ているあいだ、
何度もモヤっとしました。
でも、そのモヤりがなければ、
この映画は成立しなかったとも思います。

考えさせられる、という言葉で片づけてしまうには、
少し雑すぎる。
でも、
何も考えずに受け取れる作品でもない。

その中間にある、
不快さを伴った誠実さ。

それを最後まで崩さなかった点で、
この映画は、とても強い作品だったと感じています。


11. ドイツの映画だけど、日本でも同じ構造はある

この映画はドイツで作られた作品です。
制度も、言語も、文化的背景も、日本とは違う。

それでも観ていて、
「これは向こうの国の話だ」とは、どうしても思えませんでした。

養護施設を転々とする子ども。
学校や家庭だけでは抱えきれず、
専門職や制度に委ねられていくケース。
善意のある大人たちが関わっても、
どうにも行き詰まってしまう状況。

こうした構造は、日本にも確実に存在します。

呼び方や制度の名前は違っても、
「支援困難ケース」
「要配慮児」
「対応が極端に難しい子」
といった言葉で整理される存在は、現実にいます。

そしてその多くは、
誰か一人が悪いから生まれるわけではありません。

親が悪い、と言い切れない。
学校が悪い、とも言えない。
支援者が怠慢だったとも言えない。

それでも、破綻する。

この「誰も悪くないのに、どうにもならない」という構造は、
日本でも珍しいものではありません。

むしろ、
関係者が誠実であればあるほど、
問題の逃げ場がなくなっていく。

家庭では抱えきれず、
学校でも限界があり、
制度に委ねても、万能ではない。

結果として、
子どもも、大人も、
少しずつすり減っていく。

この映画がリアルだと感じたのは、
そうした行き止まりを、
「海外の特殊な事例」として処理しなかった点です。

文化の違いを超えて、
人と制度が噛み合わない瞬間を描いている。

だからこそ、
観ていて居心地が悪いし、
目を逸らしたくなる。

日本では、
こうした話題はどうしても
「かわいそうな子ども」
「支援が足りない社会」
という語り方に寄りがちです。

それ自体が間違っているとは思いません。
でも、それだけでは掬いきれない現実がある。

この映画は、
その掬いきれなさを、
国籍や制度の違いを越えて、そのまま差し出してきます。

ドイツの映画だからこそ、
少し距離を置いて観られる。
でも、その距離がある分、
日本の現実にも重ねて考えてしまう。

私はこの作品を、
「海外の社会問題映画」としてではなく、
どこにでも起こり得る構造を映した映画として受け取りました。

だから観終わったあとも、
この話を他人事として片づけることができなかったのだと思います。


12. 「モヤる」という一点において、間違いなく質が高い

この映画を観終わって、
最後まで残った感情を一言で表すなら、
やはり「モヤる」でした。

スッキリしない。
納得もできない。
誰かに勧めるときも、
「面白かったよ」とは言いづらい。

それでも、
観なければよかったとは思わない。

むしろ、
このモヤりを抱えたままでいること自体が、
この作品を観た意味なのだと感じています。

この映画は、
感動させようとしません。
救いを用意しません。
観客の感情を、きれいな場所に着地させようともしない。

その代わりに、
現実の中に確かに存在する、
どう扱っていいか分からないものを、
映画として成立する形で差し出してきます。

同情できない主人公。
善意では救えない状況。
誰も悪者にできない構造。
そして、名前を与えることでしか共有できない行き止まり。

これらを、
分かりやすい教訓や希望に回収しなかった点で、
この作品はとても誠実だったと思います。

誠実さは、必ずしも心地よいものではありません。
むしろ、
観る側に負担を残し、
考え続けることを強いる。

でも、だからこそ、
観終わったあとも、この映画は頭から離れない。

私はこの作品を、
「良い映画だった」と簡単には言えません。
同時に、
「悪い映画だった」と切り捨てることもできない。

ただ、
モヤるという一点において、
これほど仕事をした映画は、そう多くない

とも思っています。

答えが出ないまま考え続けること。
割り切れない感情を抱えたままでいること。
それ自体が、
この映画と向き合った結果なのだとしたら。

少なくとも私にとっては、
この作品は、
観たことを後悔しない一本でした。

そしてきっと、
時間が経ってからふと、
また思い出してしまう。

あのとき、私は何を見て、
何にモヤっていたのだろう、と。

そうやって思い返してしまう映画であること自体が、
この作品の質の高さを、何よりも雄弁に物語っている気がします。

記事執筆時点(2026/1/12)で、この映画はAmazon Prime Videoで配信されています。
スッキリしたい気分のときには向きませんが、
「少し考える余裕のある夜」には、強く印象に残る一本です。

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