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「違和感も有益なデータであるという話 ― 小説の感想から見えた私の思考構造」

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こんにちは。よだかです。

最近、「人間に向いてない」という小説を読みました。
世間では一定の評価を受けている作品なのですが、私自身にはほとんど刺さらず、むしろかなり強烈な違和感を覚えました。

そこで、これは良い機会だと思い、その違和感の正体を手がかりに、自分自身の思考を少し深掘りしてみることにしました。

普段から小説はそれなりに読んでいるのですが、ここまで明確な違和感を覚えた作品は珍しいです。
作品そのものが良い悪いという話ではなく、「なぜ自分には合わなかったのか」を掘ってみたら面白いのではないか、と思ったのがこの記事を書くきっかけです。

なお、本記事の目的は作品を貶めることでも、ネガティブな評価を示すことでもありません。
何かを生み出すという行為には敬意を払うべきだと思っていますし、その苦しさについては私自身も多少なりとも理解しているつもりです。

今回は、今回は「違和感も有益なデータである」という視点から、この読書体験を材料に自分の思考構造を整理してみます。
個人的にはなかなか面白い結果になったので、備忘録も兼ねてまとめておこうと思います。

また、この記事を読んで「この本を読んでみたい」と感じた方は、ぜひ手に取ってみてください。
家族の在り方や、ままならない現実などをテーマにした作品なので、人によっては何かしらの発見や気づきがあるかもしれません。
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1. 読んだ本と、率直な感想

「人間に向いてない」を読んで感じたこと

今回読んだのは、黒澤いづみさんの小説『人間に向いてない』です。

この作品は、「ある日突然、人間が異形の存在へと変化してしまう」という世界を舞台にした物語です。主人公の息子もまたその変化に巻き込まれ、虫のような姿の“異形”になってしまいます。そこから、母親としてどう向き合うのか、家族はどう変わっていくのか、といった出来事が描かれていきます。

テーマとしては、家族の在り方や、人間の弱さ、現実のままならなさなどを扱った作品と言えると思います。読み進めていくと、同じように家族が異形になってしまった人々の話や、それぞれの向き合い方なども描かれていきます。

ただ、これはあくまで私個人の読書体験なのですが、読んでいる時も読み終えたときも率直な感想は「かなり強い違和感を覚える」というものでした。

観測できる範囲でレビューに目を通しましたが、やはり世間では一定の評価を受けている作品でもありますし、テーマ自体も重みがあり、共感できる人がいるのも理解できます。だからこそ、なおさら「なぜ自分にはここまで刺さらなかったのだろう」と不思議に感じました。

読みながら特に気になったのは、「人が異形になる」という設定が、物語の中であまり活かされていないように感じた点です。登場人物たちの関係性や葛藤自体は、異形という設定がなくても成立してしまうように思えたからです。もしこの設定がなかったとしても、似たような人間模様は描けてしまうのではないか、という感覚がどうしても拭えませんでした。

また、物語の展開や演出についても、ところどころで「この場面はなぜ必要だったのだろう」と首をかしげてしまう部分がありました。たとえば、主人公の夢の中で「息子は実はすでに亡くなっていて、異形という世界は主人公の妄想だったのではないか」と示唆されるような場面があるのですが、その後の展開を見ると結局そういうわけでもなく、個人的には少し意図が読み取りにくいシーンに感じられました。

もちろん、これはあくまで私の読み方の問題かもしれません。小説は読者によって受け取り方が大きく変わるものですし、別の角度から読めばまた違った印象を持つ人も多いと思います。

ただ、普段それなりに小説を読んでいる中でも、ここまで強い違和感が残る読書体験は珍しく、「なぜ自分はこの作品にここまで引っかかったのだろう」と考えずにはいられませんでした。

そこで今回は、この違和感をそのままにしておくのではなく、少し分解してみることにしました。
もしかすると、その違和感の中に、自分自身の物事の捉え方や思考の癖が見えてくるかもしれないと思ったからです。


2. 違和感の正体を考えてみる

なぜこの作品をここまで面白く感じなかったのか

前章で書いた通り、この作品を読み終えたあと、私の中にはかなり強い違和感が残りました。
ただ、その違和感がどこから来ているのかは、読み終えた直後の時点ではうまく言葉にできませんでした。

作品の出来がどうこうという話だけで片付けてしまうこともできたのですが、少し落ち着いて考えてみると、どうもそれだけではない気がしてきました。むしろ、「自分の側にある何か」とぶつかった結果として、この違和感が生まれているように感じたのです。

そこで改めて思い返してみると、この作品の登場人物たちは、どちらかというとあまり大きく動かない人物が多い印象でした。もちろん葛藤はありますし、それぞれ悩んではいるのですが、その悩みが何か大きな行動や変化につながっていくというよりは、状況の中で揺れ続けるような描かれ方が多かったように思います。

これは文学として決して珍しいものではありません。むしろ、人間の弱さやままならなさを描く作品としては、ごく自然なアプローチだと思います。現実の人生も、必ずしも劇的に状況が変わるわけではありませんし、どうにもならない状況の中で立ち止まってしまうこともあります。

ただ、どうやら私は、そういうタイプの物語にあまり強く惹かれないらしい、ということに今回あらためて気づきました。

私が小説を読んでいて面白いと感じるのは、登場人物が状況に対して何らかの形で向き合い、考え、選択し、そして動いていく物語であることが多いようです。必ずしも成功する必要はありませんし、途中で迷うこともあるでしょう。それでも、状況の中で何かを理解しようとし、そこから行動が生まれる――そういう流れがあるとき、私はその物語に強く引き込まれます。

一方で、『人間に向いてない』の登場人物たちは、少なくとも私の読み方では、そうした「動き」があまり感じられませんでした。むしろ、状況に押し流されながら、どうにもならない現実の中で揺れ続ける人物像が中心に描かれているように思えたのです。

ここでようやく、自分の中の違和感の輪郭が少し見えてきました。

どうやら私は、「人が動かない物語」そのものに対して、あまり魅力を感じないタイプの読者らしいのです。もちろん、これは作品の良し悪しとは別の話です。そういう物語を深く愛する読者も多くいるでしょうし、その価値を否定するつもりはまったくありません。

ただ、自分自身の読書体験を振り返ってみると、どうやら私は「人が考え、選び、動いていく物語」を好む傾向が強いようです。そして今回の作品は、その自分の好みとはかなり違う場所にある物語だったのかもしれません。

そう考えると、今回感じた違和感は、作品そのものというよりも、「自分の物語の受け取り方」とのズレから生まれていた可能性が高そうです。

では、なぜ私はそういう物語を好むのでしょうか。
その理由をもう少し掘ってみると、今度は自分自身の思考の癖のようなものが見えてきました。


3. 違和感から見えた自分の思考

私は仮説を持ち、反証をぶつけるタイプの人間らしい

前章では、「人が動かない物語」に対して自分があまり魅力を感じないらしい、というところまで整理しました。では、なぜ私はそういう物語を好むのか。そこをもう少し掘り下げてみると、今度は自分自身の思考の癖のようなものが見えてきました。

私は普段、物事を考えるときに、まず自分なりの仮説を立てることが多いタイプです。そしてその仮説に対して、意図的に反証をぶつけていきます。反例になりそうな事実を探したり、別の可能性を検討したりしながら、それでもその仮説が生き残るのかどうかを確かめていく、というやり方です。

このとき、最初に立てる仮説は、わりと直感的なものだったりします。ただ、その直感をそのまま信じるというよりは、むしろそこから検証を始めるための出発点として使う、という感覚に近いかもしれません。仮説に対して反証をぶつけ続け、それでも崩れない部分が残れば、その仮説は少しずつ強くなっていきます。

もちろん、仮説が崩れることもあります。その場合は、そこまでの考えをあっさり捨てて別の仮説を立て直します。自分の考えに固執するというよりは、「どの仮説が現実に一番合っているのか」を探している、という感覚に近いかもしれません。

ただ一つだけ、完全には崩れないものがあります。それは、自分の中にあるいくつかの「信念」のようなものです。たとえば「世界には何らかの構造があるはずだ」といった前提は、かなり強く自分の中に残っています。これはもはや仮説というより、ある種の信念に近いものかもしれません。

そのため、日々の思考の中では、信念の部分はあまり動かさず、その下にある仮説や手段の部分をどんどん更新していく、という形になっています。言い換えるなら、「信念は固定し、仮説は壊す」という構造です。

こうして自分の思考を整理してみると、今回の読書体験で感じた違和感も、少し納得がいく気がしてきました。私にとって面白い物語というのは、登場人物が何かしらの仮説を持ち、それを試し、状況の中で更新していくような動きがある物語なのかもしれません。そこに試行錯誤や変化が生まれるとき、私はその物語を面白いと感じるようです。

逆に言えば、状況の中で悩み続けるだけで、あまり大きな選択や更新が起こらない物語に対しては、どうしても距離を感じてしまうのかもしれません。今回の違和感は、その自分の思考の癖がはっきり表に出てきた結果だったように思います。

そして、この思考の癖は、実は普段自分が取り組んでいることとも、かなり深くつながっています。特に仮想通貨のbot開発をしていると、この「仮説と反証」のサイクルは、ほぼ毎日のように回っているからです。


4. 私は世界を「構造」として見ている

世界には構造があり、集合すればパターンが現れる

ここまで書いてきた自分の思考の癖をもう少し整理してみると、どうやら私は物事をかなり「構造」として見る傾向があるようです。

これは少し大げさに聞こえるかもしれませんが、私の中では「世界は基本的に何らかの構造で動いている」という前提があります。もちろん、個々の出来事を見れば偶然やノイズも多いですし、人間の行動は感情に左右される部分も大きいでしょう。しかし、ある程度の数が集まり、時間が経過すると、その背後に一定のパターンや傾向が見えてくることが多い、と私は考えています。

たとえば人間の行動一つを取っても、個人単位では予測が難しいことが多いものです。誰がどんな判断をするのかは、その人の性格や状況によって大きく変わります。ただ、人が集団になると、ある程度共通した振る舞いが現れてくることがあります。責任が分散されると行動が消極的になりやすいとか、周囲の空気に影響されて意思決定が変わるとか、そういった傾向は社会のさまざまな場面で観察されます。

金融市場も、同じように集合的な振る舞いの一例だと思っています。市場に参加しているのは一人ひとりの人間ですが、取引が積み重なっていくと、そこには個人の意思を超えた流れのようなものが生まれてきます。資本は密度の高いところへ集まりやすく、流れが加速する場所ではさらに資金が集中します。逆に、強い資本同士が正面から衝突する場面は意外と少なく、結果としてごく少数の大きなプレイヤーが生き残る構造が出来上がっていくこともあります。

こうした動きは、個々の意思決定だけを見ていてもなかなか理解できませんが、全体を集合として見ると、ある種の「最適化」のような流れが現れているようにも見えます。もちろん、それが完全に合理的なものとは限りませんし、途中で歪みが生じることもあります。ただ、それでも長い目で見ると、何らかの構造が形成されていく傾向は確かに存在しているように感じます。

私が物事を考えるとき、基本的にはこの「構造」を探そうとしているのだと思います。個々の出来事に振り回されるのではなく、その背後にあるパターンや再現性を見つけようとする。もしそこに一定の構造があるのなら、それを理解することで、次に起きることの可能性を少しでも高い精度で捉えられるかもしれないからです。

この考え方は、普段の生活の中でも無意識に働いている気がしますが、特に仮想通貨のbot開発をしているときには、かなりはっきりと表に出てきます。市場の動き一つ一つに感情で反応するのではなく、「その背後にどんな構造があるのか」を仮説として立て、それをデータで確かめていく。うまくいくかどうかは別として、基本的な姿勢はずっと同じです。

そして、この視点から振り返ると、今回読んだ小説に対して感じた違和感も、少し理解できる気がしてきます。あの作品は、人間の感情や弱さを丁寧に描いている一方で、私が普段興味を持っているような「構造」をあまり感じ取ることができませんでした。もちろん、それが作品としての価値を下げるわけではありません。ただ、少なくとも私の思考の癖とは、少し違う方向を向いていたのだと思います。


5. 仮想通貨botterとしての結論

違和感はノイズではなく、探索のヒントになる

ここまで、小説の読書体験をきっかけに、自分の思考の癖や世界の捉え方について書いてきました。もともとは単なる読書感想のつもりだったのですが、振り返ってみると、普段自分がどういう前提で物事を見ているのかが、かなりはっきり浮かび上がってきた気がします。

そして、この整理をしているうちに改めて思ったのは、「違和感」というものは、意外と重要な情報源なのではないかということです。

普段生活していると、何かに対して引っかかりを感じても、「なんとなく合わない」で済ませてしまうことが多いと思います。私自身も、そうやって流してしまうことは少なくありません。ただ、今回のように少し立ち止まってその違和感の正体を考えてみると、自分の思考の前提や価値観が見えてくることがあります。

これは、仮想通貨のbot開発をしているときの感覚にも、かなり近いものがあります。市場のデータを見ていると、「なぜかここが気になる」「この動きは何かおかしい」といった、小さな違和感のようなものを感じることがあります。その段階ではまだ仮説にもなっていないことが多いのですが、そこを起点にデータを掘っていくと、思わぬパターンや構造が見えてくることがあります。

もちろん、その多くは勘違いやノイズに過ぎないこともあります。それでも、違和感を完全に無視してしまうと、新しい仮説の種そのものを見逃してしまうかもしれません。だからこそ私は、「違和感が生まれた」という事実そのものを、一つのデータとして扱うようにしています。

その違和感が本当に意味のあるものなのか、それとも単なる思い込みなのかは、あとから検証すればいい話です。重要なのは、「なぜそう感じたのか」を一度立ち止まって考えてみることだと思っています。

今回の読書体験も、結果としてはまさにそれでした。
一冊の小説に対して強い違和感を覚えたことをきっかけに、自分がどんな物語を好み、どんな思考の前提で世界を見ているのかが、少し整理できた気がします。

仮想通貨botterとして日々やっていることも、突き詰めれば同じです。
世界には何らかの構造があり、その構造はデータとして現れるはずだという前提を置きながら、仮説を立て、反証をぶつけ、うまくいかないものは捨てていく。その繰り返しの中で、ほんの少しでも再現性のあるパターンを見つけようとしているわけです。

その意味では、今回の記事のタイトルにした「違和感も有益なデータである」という言葉は、読書に限らず、普段の思考や研究の姿勢そのものを表しているのかもしれません。

何かに違和感を覚えたとき、それをただの感情として流してしまうのではなく、「なぜそう感じたのか」を一度データとして扱ってみる。そこから思いもよらない発見につながることもあります。

少なくとも、今回の私にとっては、そういう一冊の読書体験でした。

今回読んだ「人間に向いてない」はこちらからチェックできます。気になった方は手に取ってみて下さい。
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