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【読書感想】『イン・ザ・メガチャーチ』~"距離感をバグらせてしまった現代人たち"を描く秀作~

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こんにちは、よだかです。

先日、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読みました。

かなりしんどい作品でした。
でも、めちゃくちゃ面白かったです。

読み進めるほどに気持ちは重くなるのに、登場人物たちがどこへ向かってしまうのかが気になって、最後までページをめくる手が止まりませんでした。

本作は、推し活、マーケティング、陰謀論、承認欲求、孤独、仕事、家族関係など、現代社会で誰もが少しずつ触れているものを扱っています。
しかも、それらを単なる社会批判としてではなく、「人が何かとの距離感を壊していく過程」として描いているところが、とても良かったです。

情報が多すぎる時代に、自分は何を信じるのか。
何に自分を預けるのか。
どこまで没入して、どこから距離を取るのか。

そういうことを考えさせられる作品でした。

ただし、読んでいてしんどくなる描写も多いので、万人に気軽におすすめできる本ではありません。
特に、わかりやすいカタルシスを得たい人とかハッピーエンドじゃないとモヤモヤする人などが読むのであれば、それなりの体力が必要だと思います。
それでも、最近読んだ小説の中ではトップクラスに面白かったです。

※以下、物語の核心に触れる感想を含みます。未読の方は、本作を読んでから本記事を読むことをお勧めます。

『イン・ザ・メガチャーチ』をamazonでチェックする。

本作の登場人物とあらすじ

『イン・ザ・メガチャーチ』は、推し活とチャーチ・マーケティングを軸にした物語です。

ここでいう推し活とは、ざっくり言えば、アイドルなど自分が応援している対象に時間・お金・感情を注ぎ込む活動のことです。
本作では、その推し活を自然発生的なファン活動としてだけでなく、マーケティングによって意図的に設計される熱狂として描いています。

また、チャーチ・マーケティングとは、熱狂的なファンを作り出すようなマーケティングを展開し、そのファンをを企業戦略における収益動線のひとつとして活用する手法とするというのが本作での位置付けです。

物語の中心になる人物は、主に3人です。

久保田慶彦
マーケティング側の人物。澄香の父。妻とは離婚しており、妻と娘とは別居しています。孤独を感じながら生活しており、娘とは定期的にテレビ電話で連絡を取っています。

武藤澄香
大学生。慶彦の娘。決して頭が悪いわけではありません。むしろ下手に考えすぎてしまう分、人間関係や将来についてうまく折り合いをつけられずにいます。

隅川絢子
会社員。心の支えにしていた推しのアイドルを自殺で失い、その喪失をきっかけに陰謀論へ傾いていきます。

3人に共通する要素としては、それぞれにタイプの異なる孤独を抱えているってことですね。

で、物語の序盤で、慶彦は昔の仕事仲間から「推し活のマーケティング」に関わるチームへ誘われます。
今回のプロジェクトをざっくり言えば、これから売り出すアイドルグループの物語を設計し、展開し、極端に熱量の高いファンを作っていく仕事です。
作中では、その熱量の高いファンたちは、まるで信徒のようにも描かれます。
かつて音楽業界で働いていた慶彦は、アーティストの人生を物語のように編集し、売り出した経験を持っています。その経験が心に残っていたこともあり、慶彦はその誘いを受けることになります。

一方、澄香は国際交流の盛んな大学で学生生活を送っています。
ただ、入学直後に人と打ち解けるきっかけを逃してしまったことや本来の内向的な気質などが相まって、周囲との距離感をつかめずにいます。

周囲には、視野を広げること、多様な価値観に触れること、将来に向けて積極的に動くことを良いものとして語る学生たちがいます。
でも、澄香はそこにうまく馴染めません。

自分は留学してまでやりたいことがあるのか。
将来就きたい仕事を、そんなふうに前向きに決めていける人間なのか。
そもそも、その生き方は自分の内向的な気質に合っているのか。

そんなモヤモヤを抱えながら過ごしています。
ついでに、彼氏とも最近うまくいっていません。

父である慶彦とのテレビ電話も、親子の自然な交流というより、離婚時の取り決めとして続いているものに近くて、澄香自身はそこまで乗り気ではないように見えます。
慶彦の方も、娘との距離感をうまくつかめず、毎回どこか微妙な空気になってしまうことに悩んでいます。

絢子のパートもかなりきついです。
彼女は、心の支えにしていたアイドルを自殺で失います。そこからメンタルのバランスを崩し、その死を素直に受け入れられないまま、推し活仲間と一緒に真相を探ろうとします。

しかし、一般人が得られる情報には限界があります。
それでも何か意味を見つけたい。納得できる物語が欲しい。
その欲求が、少しずつ彼女たちを危うい方向へ連れていきます。

やがて絢子は、インチキ霊媒師のような人物の元へ通って死んだアイドルの声を聞こうとするようになります。さらには、霊媒師のもとに一緒に通う仲間の影響を受けて、メディアや警察の発表は嘘に塗れているという陰謀論へ傾いていきます。
しかも本人には、自分がおかしな方向へ進んでいるという自覚がありません。

慶彦の仕事は、国見まことという優秀なマーケターの存在もあり、大きな成果を上げていきます。
チャーチ・マーケティングは成功し、アイドルグループの熱狂的なファンは増えていく。

しかし、その裏で、慶彦の娘である澄香が、まさにそのマーケティング戦略のターゲットとして推し活の沼に深くはまり込んでいきます。

これが本当に地獄です。

澄香は、父に嘘をついて大学の留学費用としてお金を請求し、そのお金を推し活に注ぎ込むところまで行ってしまう。
ただ、澄香の内向的な気質、大学での孤立感、将来への不安、父との関係性を踏まえると、そうなってしまう材料はかなり揃っています。

「仕方ねぇけど、救いもねぇわ」

読んでいて、そんな気持ちになりました。
ここは、作者の描き方が本当にうまいです。

じゃあ、慶彦は大丈夫なのかというと、全然そんなことはありません。
彼もまた、仕事として関わっていたアイドルへのインタビューをきっかけに、距離感を間違えた心配や思い入れを抱くようになります。
そして、それが仕事上の決定的なミスにつながっていく。

慶彦がきついのは、彼が40代後半の大人だという点です。
澄香や絢子とは違う種類の痛さがあります。

慶彦は、自分が過去に選ばなかったこと、向き合ってこなかったことが今の自分に返ってきていると感じています。
だからこそ、これからは後悔しないように、今抱いた気持ちに嘘をつかないように行動しようとする。

でも、それが読んでいてかなり苦しい。

「いや、それはもう今さらどうにもならないし、現実逃避では?」

と思えてしまう場面が何度もありました。
今の自分を正しく認識できていないまま、過去の後悔を埋めるように行動しているように見えるんですよね。

ここは、自分にも少し刺さりました。

私は30代で、普段は一人で黙々と仕事をしている時間がかなり長いです。
人と会う機会も多くありません。
それでも仕事は回るし、生活にも困っていません。

だからこそ、慶彦を見ていると、

「人との距離感を更新しないまま歳を取ったら、自分にもこういう未来があるのでは?」

という嫌な怖さがありました。
まあ、考えすぎかもしれません。
でも、そういうところまで自分に返ってくるのが、この作品の嫌なところであり、面白いところでもあります。

とにかく、この3人は、人にせよ物事にせよ、距離感の取り方がそれぞれバグっています。

最初は、少しズレているだけに見えます。
でも、そのズレが少しずつ大きくなり、気づけばかなりおかしな方向へ進んでいる。

しかも厄介なのは、彼らが悪意でそうしているわけではないことです。
それぞれが、自分なりの救いだと思っているものを信じて行動した結果、どんどん地獄へ向かっていく。

これが本当にしんどい。

最後に絢子だけは、自分が陰謀論に傾いていたことに気づくような描写があり、そこにはわずかな救いがあります。
ただ、状況そのものが大きく変わるわけではありません。

最後まで、三者三様の地獄です。

でも、不快なのに読めてしまう。
むしろ、不快だからこそ目が離せない。

『イン・ザ・メガチャーチ』には、その不快さを最後まで読ませ切る力があります。
そういう意味でも、かなりの秀作でした。

「自分を使い切りたい」という欲求について

本作でかなり印象に残ったのが、国見まことという人物です。

国見は、チャーチ・マーケティングの中核にいる人物です。
かれは、過去にゲーム会社で働いていた経験をベースにして、人が何に熱狂するのか、どうすれば自分から没入していくのか、どんな物語なら人は時間やお金や感情を差し出すのかを、かなり冷静に見ることができます。

先述の3人とは対照的に、距離感をバグらせて壊れていく側ではなく、距離感をバグらせる構造を理解している側の人物です。

だからこそ、彼の言葉はいちいち刺さりました。

特に印象に残ったのは、間違えないことはできるけれど、それを繰り返しても、ただ間違えなかっただけの人生になるかもしれない、という趣旨の言葉です。

これはかなり嫌な言葉でした。

現代では、失敗しないこと、損をしないこと、炎上しないこと、無駄を避けることがかなり重視されます。
もちろん、それは大事です。
何も考えずに突っ込めばいいという話ではありません。

ただ、間違えないことだけを最優先にすると、人生はどんどん小さくなっていく。
傷つかない。損しない。失敗しない。
でも、その代わりに、自分を大きく使うこともなくなる。

国見の言葉は、その息苦しさをかなり鋭く突いているように感じました。

もう一つ印象に残ったのが、推し活をしている人たちやゲームに課金する人たちには、自分を使い切らせてあげないといけない、という趣旨の言葉です。

これも、言っていることはかなり危ういです。
人の熱量や孤独や承認欲求をマーケティングの対象として扱っているわけなので、手放しで肯定できる言葉ではありません。

でも、同時に、かなり分かってしまう言葉でもありました。

人は、自分を余らせたままでは生きにくいのだと思います。

時間がある。
感情がある。
能力がある。
熱量がある。
でも、それを注ぎ込む対象がない。

そういう状態は、かなりしんどい。

だから人は、推し活をする。
ゲームに課金する。
仕事に没頭する。
創作をする。
勉強をする。
トレードをする。
何かのコミュニティに入る。
何かの物語を信じる。

それぞれ形は違いますが、「自分を使いたい」という欲求はかなり共通しているように思います。

私自身、会社員を辞めてアルゴトレーダーになった理由を煎じ詰めると、どこかで自分をだぶつかせていたからだと思います。

別に、前職が極端に悪かったわけではありません。
生活もできていたし、仕事も回っていた。
大きく破綻していたわけではない。

でも、自分の中に余っているものがある感覚はずっとありました。

もっと考えたい。
もっと自分で決めたい。
もっと仮説を立てて検証したい。
もっと構造を見たい。
もっと自分の認知や能力を使いたい。

そういう感覚が、かなり強かったのだと思います。

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だから、国見の言葉はかなり刺さりました。

人は退屈に耐えられない。
もっと正確に言うと、自分を余らせたまま生きることに耐えられない。

もちろん、だからといって、何かに没入すれば全部正しいという話ではありません。
むしろ本作は、その没入がどれだけ危ういものになりうるかを描いています。

澄香は、自分を注ぎ込める対象を見つけたことで、一時的には救われたように見えます。
でも、その対象との距離感を失い、生活や人間関係を壊していく。

絢子も、推しの死に意味を見つけようとして、陰謀論へ向かっていく。
彼女にとっては、それも喪失を処理するための行動だったのかもしれませんが。

で、慶彦も、自分の過去の後悔や孤独を仕事に重ねていく。
その結果、仕事との距離感を間違えてしまう。

つまり、「自分を使い切りたい」という欲求は、それ自体が悪いわけではありません。
でも、その欲求をどこへ向けるのか。
どの程度まで注ぎ込むのか。
途中で距離を取り直せるのか。

そこを間違えると、人はかなり簡単に壊れてしまう。

本作がうまいのは、熱狂を否定していないところです。

推し活も、仕事も、創作も、トレードも、何かに没入すること自体は人間にとってかなり大事です。
没入できる対象があるから、日々に意味が生まれることもある。
自分を使えている感覚があるから、生きている実感が得られることもある。

ただし、その熱狂が自分の判断基準を全部奪ってしまうと危ない。

自分を使い切ることと、自分を明け渡すことは違う。

この違いを間違えると、本作の登場人物たちのように、救いだと思っていたものに飲み込まれてしまうのだと思います。

視野を広げることが、いつも正しいとは限らない

本作では、「視野を広げること」と「視野を狭めること」について何度も考えさせられました。

普通に考えると、視野は広い方が良い。
多様な価値観に触れることも、いろいろな人と関わることも、将来の選択肢を増やすことも、基本的には良いこととして語られます。

実際、それ自体は間違っていないと思います。

ただ、本作を読んでいると、視野を広げることが常に人を楽にするわけではないとも感じました。

特にそれが表れているのが、澄香のパートです。

澄香は、国際交流の盛んな大学に通っています。
周囲には、海外に目を向けたり、自分の将来について前向きに考えたり、多様な価値観に触れることを自然に良いものとして受け入れている学生たちがいます。

しかし、澄香はそこにうまく馴染めません。

視野を広げよう。
世界を見よう。
自分のやりたいことを見つけよう。
将来に向けて積極的に動こう。

そういう言葉は、たしかに正しい。
でも、正しさがそのまま本人の救いになるとは限らない。

澄香にとっては、むしろその空気が、自分には何もないという感覚を強めていたように見えます。
周囲が前向きであればあるほど、自分だけが取り残されているように感じる。
選択肢が多ければ多いほど、何を選んでいいのか分からなくなる。
多様性がある場所にいるのに、自分の居場所だけが見つからない。

これはかなり現代的な苦しさだと思います。

選択肢があることは、基本的には良いことです。
でも、選択肢が多すぎると、人はかえって動けなくなることがあります。

私自身も、一つのことを際限なくぐるぐる考えてしまうことが多いし、なんならそういう自分を気に入っているフシさえあります。
拗らせている自分も嫌いじゃないけど、それを人にぶつけるのは悪手だという認識くらいは持ち合わせているつもりです。

で、そう言うことを考えながら人に気を使って過ごすのって、とても疲れます。
私の気質も澄香ほどではないにせよ、内向的な部分があるので、澄香のしんどさにもある程度共感できました。

広い世界を見せられても、自分の中に判断の基準が育っていなければ、ただ圧倒されるだけになる。
いろいろな生き方を知っても、自分はどうしたいのかが分からなければ、他人の眩しさだけが目につく。

だからこそ、推し活というものが大学生である彼女にとって強く作用してしまったのでしょう。
で、私も大学生の頃に澄香と同じような境遇に陥っていた可能性あるかもしれんな、と。

推し活って、ある意味では視野を狭める行為です。
広い世界の中から、特定の対象に自分の時間やお金や感情を集中させる。
考えることを減らし、見るものを絞り、信じるものを決める。

それは危うい。
でも、同時に、人を動けるようにする力もあります。

視野が広すぎて動けなかった人間にとって、「これを応援すればいい」「ここにいればいい」「この物語を信じればいい」という状態は、かなり強い救いになります。

澄香が推し活に深くはまっていく過程には、その怖さがありました。

彼女は、単に馬鹿だから騙されたわけではない。
むしろ、自分の居場所や判断基準を持てないまま、広い世界の中で不安定に立っていたからこそ、強い物語に吸い寄せられていったように見えます。

ここで大事なのは、視野を広げることと狭めることのどちらが正しいかではないと思います。

人は、視野を広げないと自分の世界が閉じてしまう。
でも、視野を広げ続けるだけでは、今度は自分がどこに立っているのか分からなくなる。

逆に、視野を狭めることには集中や没入の力があります。
何かを選ぶということは、他の可能性を一時的に捨てることでもある。
だから、行動するためには、ある程度は視野を狭める必要があります。

ただし、狭めた視野を絶対化すると危ない。

推しだけを見ればいい。
この物語だけを信じればいい。
このコミュニティだけが正しい。
自分を分かってくれるのはここだけだ。

そうなった瞬間に、距離感は一気に壊れていく。

本作がきついのは、視野を広げられない人を笑っているわけでも、視野を狭める人を単純に批判しているわけでもないところです。

広げすぎても苦しい。
狭めすぎても壊れる。

その間で、自分にとっての適切なバランスを考え続けるしかない。

これは、私自身にもかなり刺さりました。

アルゴトレードの研究をしていても、似たようなことがあります。
情報を集めることは大事です。
市場構造を学ぶことも、複数の仮説を持つことも、視野を広げる行為として必要です。

でも、視野を広げるだけでは何も決まりません。

どこかで仮説を絞る。
観測対象を決める。
検証期間を置く。
いったん信じる前提を置いて、手を動かす。

そうしないと、行動できない。

一方で、仮説を信じ込みすぎると、今度は見たいものしか見なくなる。
都合の良いデータだけを拾い、反証を避け、自分の物語に市場を合わせようとしてしまう。

だから、視野を広げることと狭めることは、どちらも必要なのだと思います。

広げることで、思い込みをほどく。
狭めることで、行動できる形にする。
そして、定期的にまた広げ直す。

本作の澄香を見ていると、その調整機能を持てないまま、強い物語に飲み込まれていく人間の怖さがよく分かります。

現代は、視野を広げろと言いながら、同時に視野を狭めさせる仕組みにも満ちています。

SNSも、推し活も、マーケティングも、コミュニティも、アルゴリズムも、気づけば「あなたが見るべきもの」を絞ってくる。
その絞られた世界が心地よければ、人は簡単にそこへ留まりたくなる。

だからこそ、自分で問い続ける必要があるのだと思います。

今、自分は視野を広げるべきなのか。
それとも、狭めて集中すべきなのか。
狭めた結果、何を見落としているのか。
広げた結果、自分の判断がぼやけていないか。

このバランスを自分で検討し続けること。

本作を読みながら、現代を生きる上でそれはかなり重要な能力なのだと感じました。

他責性と「自分の芯」の問題

本作を読んでいて、しんどかった理由の一つが、登場人物たちの他責的な姿勢でした。

もちろん、彼らが置かれている状況には同情できる部分があります。
澄香の孤立感も、絢子の喪失感も、慶彦の孤独や後悔も、まったく分からないものではありません。

むしろ、どの人物にも一定程度は共感できました。

ただ、それでも読んでいてかなりイライラする場面がありました。
その理由を考えると、彼らが自分の苦しさや空虚さを、自分の内側で引き受けきれず、どこか外側の物語へ預けてしまっているように見えたからだと思います。

でも、それと同時に、身近に相談できる人間がいないだけで、人ってこんなに簡単に壊れていくんだな、と妙な納得感がありました。

絢子は、推しを失った現実を受け入れられません。
もちろん、大切な存在を自殺で失った人間が、すぐに納得できるわけがない。
そこに意味を求めてしまうこと自体は、かなり人間的です。

でも、絢子はその喪失を、自分の中で時間をかけて受け止めるよりも、外部の陰謀論的な物語に預けていきます。

「本当は何かが隠されているのではないか」
「報道や警察が嘘をついているのではないか」
「自分たちだけが真実に近づいているのではないか」

そう考えることで、彼女は一時的に苦しさを整理できる。
ただし、それは現実を受け止めることではなく、現実を別の物語に置き換えることでもあります。

澄香も同じです。

彼女は、自分の居場所のなさや将来への不安、人間関係のうまくいかなさを抱えています。
それはかなり現代的で、読んでいて分かる部分も多い。

でも、その苦しさを自分の中で少しずつ言葉にしたり、現実の人間関係の中で調整したりするよりも、推し活の物語に自分を預けていく。

推しを応援している自分。
その物語の一部になっている自分。
熱量の高いファンとして存在している自分。

そういう形で、自分の輪郭を外側から与えてもらっているように見えました。

慶彦もまた、かなりきついです。

彼は、過去に向き合ってこなかったことや、選ばなかったことが今の自分に返ってきていると感じています。
そこまでは分かります。

ただ、その後の行動が、自分の現在地を正しく見た上での選択というより、「今度こそ後悔したくない」という気持ちを仕事や他人に重ねているように見える。
だから、読んでいてイタい。

彼は、娘との関係にも、仕事にも、アイドルへの接し方にも、どこかで自分の空白を埋めようとしている。
でも、その空白を自分のものとして引き受けきれていない。

だから、結果的に距離感を間違える。

この3人に共通しているのは、自分の中に判断の芯が育っていないことだと思います。

ここでいう芯とは、立派な信念や強い自己肯定感のことではありません。
もっと地味で、日常的なものです。

自分は何に耐えられないのか。
何に弱いのか。
何を欲しがっているのか。
どこまでは踏み込んでよくて、どこから先は危ないのか。
どの欲求は自分で引き受けるべきで、どの部分は他人や環境に助けてもらうべきなのか。

そういう、自分を扱うための基準線のようなものです。

本作の登場人物たちは、この基準線がかなり曖昧です。
だから、自分の苦しさを外部の物語に渡してしまう。

絢子は陰謀論に。
澄香は推し活に。
慶彦は仕事と過去の後悔に。

もちろん、これは全部を個人の責任にする話ではありません。

そもそも現代社会は、人が自分の芯を育てにくい環境なのかもしれません。
情報は多すぎるし、選択肢も多すぎる。
SNSを開けば、他人の価値観や成功や熱狂がいくらでも流れてくる。
マーケティングは、人の不安や孤独や承認欲求を見つけて、そこに物語を差し出してくる。

そんな環境で、自分の内側に判断基準を持ち続けるのは簡単ではありません。

だから、彼らが壊れていくことを、単に「弱い人間だから」とは言えないと思います。

ただし、それでも、自分の人生を外側の物語に丸ごと預けてしまうと危ない。

ここが本作の厳しいところです。

社会構造の問題でもある。
でも、個人の姿勢の問題でもある。
どちらか一方だけでは説明できない。

だから読んでいてしんどかった。(褒めてる)

自分を苦しめているものを、すべて他人や社会や環境のせいにすると、一時的には楽になります。
でも、その瞬間に、自分で距離感を調整する力は弱くなる。

逆に、すべてを自己責任として抱え込むのも危ない。
それはそれで、人を壊します。

大事なのは、自分の弱さを認識した上で、外部の物語に全部を明け渡さないことなのだと思います。

本作の3人は、それがうまくできませんでした。

彼らは、自分が何を求めているのかを十分に見ないまま、救いに見えるものへ近づいていく。
そして、その救いに見えたものとの距離感を失っていく。

その姿が、本当に見ていてきつい。

でも、きついからこそ、自分にも返ってきます。

自分は、何に判断を預けているのか。
何を信じることで楽になろうとしているのか。
何を「自分の選択」だと思いながら、実は外側の物語に乗せられているのか。

そういう問いが、読後に残りました。

『イン・ザ・メガチャーチ』は、距離感をバグらせた人たちの物語です。
同時に、自分の中に芯を育ててこなかった人たちが、外側の物語に飲み込まれていく物語でもある。

ただ、その芯のなさは、単なる個人の欠点として描かれているわけではありません。
現代社会の中で、誰にでも起こりうる弱さとして描かれている。

だからこそ、不快なのに目が離せない。
そして、自分は本当に大丈夫なのかと考えさせられるのだと思います。

なぜこんなにキツイ要素満載なのに読めてしまうのか

『イン・ザ・メガチャーチ』は、読んでいてかなりキツい作品でした。もう少し乱暴に言うなら「不快」に感じる場面が多かった。

ただ、その不快さが嫌なだけではありませんでした。
むしろ、そのキツさ・不快さがあるからこそ、最後まで読まされてしまった感覚があります。

本作には、分かりやすい救いがほとんどありません。

誰かが明確に成長して、現実を乗り越えるわけでもないし、悪者が倒されて、すべてが解決するわけでもない。
読者が安心して「これはあの人たちの問題だ」と距離を取れるわけでもない。

最後まで、かなり苦しい。
いつ息継ぎできるの?みたいな。

でも、その苦しさが作品としてはとても良かったです。

なぜなら、本作で描かれているものは、現代社会から簡単に切り離せる異常な出来事ではないからです。

推し活も、マーケティングも、SNS的な熱狂も、陰謀論も、仕事への没入も、承認欲求も、孤独も、どれも自分の生活と完全に無関係なものではありません。
それぞれ形は違っていても、人が何かに自分を預けたくなる構造は、かなり身近にあります。

だから、本作を読んでいると、登場人物たちを笑い切れません。

澄香の危うさも分かる。
絢子のしんどさも分かる。
慶彦の痛さも分かる。

分かるからこそ、きつい。

彼らは、最初から完全に壊れていたわけではありません。
少し孤独だったり、少し不安だったり、少し後悔していたり、少し救いが欲しかったりしただけです。

でも、その少しのズレが、強い物語や熱狂やマーケティングと結びつくことで、どんどん大きくなっていく。

この描き方が本当にうまい。

しかも本作は、登場人物たちを単純に断罪しません。
「愚かな人たちが騙されました」という話にはしない。
「悪いマーケターが人を搾取しました」という話にも閉じない。

人はなぜ、何かを信じたがるのか。
なぜ、自分を使い切りたがるのか。
なぜ、距離感を失ってしまうのか。
なぜ、外側の物語に自分を預けてしまうのか。

そこをかなり丁寧に描いています。

だから、読んでいる側も安全圏にはいられません。

私自身も、何かに深く没入するタイプの人間です。
アルゴトレードの研究も、かなり強い没入対象になっています。

もちろん、推し活や陰謀論と同じだと言いたいわけではありません。
ただ、「自分を余らせたくない」「何かに集中したい」「自分の能力や時間を使い切りたい」という欲求は、確実に自分の中にもあります。

だからこそ、この作品は他人事ではありませんでした。

自分は本当に距離感を保てているのか。
自分は何かの物語を信じすぎていないか。
自分の判断基準を外部に預けていないか。
没入と依存の境目を、自分で見られているのか。

そういう問いが、読んでいる間ずっと返ってきました。

この作品の不快さは、登場人物が嫌な人間だから生まれているのではないと思います。
むしろ、分かってしまうから不快なのだと思います。

その弱さが分かる。
その逃げ方が分かる。
その救いを求める気持ちが分かる。
でも、そのまま進むと壊れることも分かる。

この「分かるけど、見ていられない」感じが、本作の読み味をかなり強くしています。

最後に絢子には、ほんの少しだけ救いのようなものがあります。
ただ、それも分かりやすいハッピーエンドではありません。

澄香の状況も、慶彦の状況も、かなり苦しいまま終わります。
特に慶彦が、自分の娘が自分たちのマーケティングによって深く取り込まれていることを知る結末は、本当に地獄です。

でも、その救いのなさが良い。

安易に救ってしまうと、この作品の怖さは薄まっていたと思います。
現代社会の中で距離感を壊すことは、そんなに簡単に回復できるものではない。
一度、自分の判断基準を外側の物語に預けてしまうと、そこから戻ってくるのは簡単ではない。

本作は、そこをかなり冷たく描いています。

だからこそ、読み終わったあとに残るものがあります。

気持ちよくはない。
爽快でもない。
でも、強く残る。

「自分は何と、どのくらいの距離で関わっているのか」

この問いを、かなり嫌な形で突きつけてくる作品でした。

私は、こういう作品がかなり好きです。

読んでいてしんどい。
登場人物にイライラするし、救いも少ない。
でも、そこに現代を生きる人間の弱さや欲望がかなり正確に描かれている。

しんどいのに、心地良い。
読んで良かったと思える。

『イン・ザ・メガチャーチ』は、まさにそういう読書体験でした。

まとめ

『イン・ザ・メガチャーチ』は、かなり面白い作品でした。

ただ、読んでいて気持ちの良い作品ではありません。
むしろ、ずっとしんどい。
登場人物たちはそれぞれ救いを求めているのに、その救いに見えたものとの距離感を壊していく。
その結果、どんどんおかしなことになっていく。

本作を読んでいて強く感じたのは、現代では「何を信じるか」以上に、「何とどのくらいの距離で関わるか」が重要なのだということです。

推し活も、仕事も、マーケティングも、陰謀論も、コミュニティも、自己実現も、たぶんそれ自体が悪いわけではないのでしょう。
むしろ、そういうことこそが人生を幸福に生きる上で必要な熱量や意味や居場所を与えてくれることもあります。

でも、それらに自分の判断基準を丸ごと明け渡してしまうのは危ない。

澄香は、推し活によって一時的に居場所を得た。
絢子は、陰謀論によって推しの死に意味を見つけようとしました。
慶彦は、仕事や過去への後悔を通じて、自分の人生に意味を取り戻そうとした。

どれも、まったく理解できない行動ではありません。
むしろ、寄りかかりたいものが不確かな時にこそ、行為自体にに意味を求めようとする気持ちはよくわかります。

ただ、その理解できてしまう感じが怖い。
彼らは異常な人間として描かれているのではなく、少しずつ距離感を間違えていった人たちとして描かれている。
だからこそ、他人事だと思えなかった。

自分は何に没入しているのか。
その没入は、自分を使えている感覚なのか。
それとも、自分の判断を外部に明け渡している状態なのか。
自分の中に、戻ってこられるだけの芯はあるのか。

このあたりを考えさせられました。

私自身、アルゴトレードというかなり没入度の高い仕事をしています。
一人で調べ、考え、実装し、検証し、また考える。
これは自分にとってかなり合っている活動だと思っています。

一方で、強く没入できるものほど、距離感を壊す危険もあります。

だからこそ、本作を読んでいて、「推し活怖い」「マーケティング怖い」と思ったのではなく、
むしろ、自分もまた別の形で、自分を使い切れる対象を求めている人間なのだと感じました。

大事なのは、熱狂しないことではないと思います。
何かに没入すること自体は、人間にとってかなり大切です。
退屈を避けたい、自分を余らせたくない、何かに本気で関わりたいという欲求は、別に悪いものではありません。

ただ、その熱狂を自分で扱えるかどうか。
途中で距離を取り直せるかどうか。
自分が何を信じ、何に時間やお金や感情を使っているのかを、ときどき点検できるかどうか。

そこが大事なのだと思います。

『イン・ザ・メガチャーチ』は、それぞれに孤独を抱える人たちが現代社会の中で距離感をバグらせてしまうことに焦点をあてた物語でした。
同時に、それを読んでいる自分自身の距離感も問い直させる作品でした。

救いはほぼないけど、面白い。
しんどいけど、読んで良かった。
最近読んだ小説の中でも、かなり印象に残る一冊でした。

『イン・ザ・メガチャーチ』をamazonでチェックする。

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