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【学問に日常を 日常に学問を】養老孟司の人生論【養老孟司】

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どうも、よだかです。

今回紹介するのは、養老孟司さんの「養老孟司の人生論」です。

養老孟司10冊読破企画の7冊目!

2016年発刊。

学問や仕事との向き合い方を中心に人生論が展開されます。

自分自身の生き方を肯定することについて深く考えさせてくれる1冊。

内容と感想をまとめていきます。

死体は冷たい現実

著者にとって、死体は死体でしかありません。

解剖学者として務める中で、肢体と向き合い続けた人生でした。

普段から「どこからが死なのだろう」「死とは何か」「死体って何なのだろう」ということを感じることが日常だったのです。

普通の人よりも死が身近にあった環境。

目の前にある死体は、見知らぬどこかの誰かの死体。

この死体は、あくまで「3人称の死体」。

解剖医として向き合う死体は、「2人称の死体」ではない。

辿り着いたのは「死体は生きている人と同じ」という境地。

「感情が受け入れないから考えない」というところに到達したのです。

目の目の現象に感情を動かされることなく穏やかに受け入れる。

決して軽んじるということではありません。

人生は運に左右される

人生を自分だけのものだと思わずに軽やかに手放す。

仕方がないのだと受け入れる。

やるべきことは全てやったから、あとは運次第。

感情を動かさないということは、自分の人生を一生懸命に生きることに繋がるのです。

個性は身体にある

個性が宿るのは身体だけ。

本来、心に個性はない。

これが人の本来の姿です。

ところが、今は個性を伸ばそうとやっきになっています。

心に個性などないのに、あるはずのないものを育てようとしているから世の中がおかしくなっている。

どうしてこんなことが起こったのかというと「西洋近代的自我」が原因です。

「西洋近代的自我」は、個性というものの範囲を心の成果まで拡張しました。

確かに、脳のレベルで見れば、そこには個性があります。

脳の働きは、個人によって異なるので、それを個性と呼ぶのは問題ないでしょう。

ところが、それが外部に現れた時、周りの人に理解してもらえる形でないと困ったことになりますね。

例え同じことを考えていたとしても、他人が理解しなければ意味がないのです。

心は他者と共有できてこそ、その有り様が分かるのです。

完全に個性的な心というものがあるとすれば、それは誰にも理解されないということになってしまい、もはや心とは呼べません。

心に働きにまで個性という考え方を持ち込んだことが、近代の間違いの始まりです。

【人は100%死ぬ】死の壁【養老孟司】

↑「○人称の死」についての考察はこちらから

勤めを辞める

「勤めをやめると世界が明るくなる」

著者が大学教授を辞めたときのエピソードです。

大学教授を辞した時、世界がこんなにも明るかったのだと気づいて心から感動したとのこと。

これまでの自分はもはや前世のレベルで別人になってしまったと振り返っています。

人は知らず知らずのうちに今いる場所に意味を見出そうとします。

心から望んでいることに出会うのは本当に難しい。

筆者の体験から学べることは「とにかくやってみる」こと。

「我、事において後悔せず」”五輪書”

起こってしまった事にブツブツ言わない。

自分の選択に言い訳しない。

「世間という”より大きな書物”を読むために外に出た」”デカルト”

今いる場所の心地よさにお別れして、本当に学ぶべき事に出会いにいく。

誰かに教えてもらった価値観に従うのではなく、自分の頭で考え続ける。

 

筆者の強みの一つとして「人から言われたことを1年間考え続ける」ことがあります。

これは、歴史家エマニュエル・トッドの思考にも通ずる部分があって、学者の気質とも言えますね。

【突破口は”移民の受け入れ”】老人支配国家日本の危機【エマニュエル・トッド】

↑トッド氏の書籍紹介はこちらから

「自分の言葉になるまで言わない」という部分も心に残りました。

日本語は「読み書き」が中心の言語です。

「会話」中心の英語とは根本的に考え方が違うのです。

言語について学ぶなら、まずは脳について学ぶことが先決です。

【文字を読むってどういうこと?】プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?【メアリアン・ウルフ】

【デジタルのハックを許すな!】デジタルで読む脳×紙の本で読む脳【メアリアン・ウルフ】

思考の軸を意識する

筆者が自分の思考軸を構築し始めたのは30歳を過ぎた頃。

尊敬する先輩の言葉に違和感を覚えたことがきっかけでした。

その時初めて、自分の中に自分がいるような気がしたのでしょう。

この時まで、自分自身を説得して生きてきたのかもしれません。

(世間と折り合いをつけるという意味では、それもまた正解だったのでしょうが)

多くの人が「世間と折り合いをつける能力」の可能性を過信し過ぎているように感じます。

それを本当に心から望んでいるのか?

ただ我慢し得ているだけではないのか?

我慢しなくても良い方法はないのか?

これが、自分から逃げないことに繋がってきます。

学問に日常を、日常に学問を

自分が心から求めることを探求していく。

それが役に立つかどうかなんて考えなくて良い。

本気になって打ち込めることを探すには、絶え間ない修練が必要です。

幼い頃にそれに出会えた人は本当に幸運です。

けれども、諦めずに行動し続けていれば出会うチャンスはあります。

大切なのは、やめないこと。

学問というのは、本来楽しいものです。

自分が追求したいことをただただ掘り下げていく。

時間を忘れて夢中になれる。

それを達成するためなら、途中で現れる困難も受け入れる。

心から求めるものを探求していく過程が学問なのです。

学問と日常は深く結びついているのです。

みんな、学問を難しく考えすぎです。

研究の有用性に疑問を持って良いのです。

学問は有用性を問うことが目的ではありません。

興味を持ったことを深めていくことがそのまま学問になるのです。

両端をちゃんと見る

これは、バランス感覚を磨くために必ず覚えておきたいことです。

極端なことを知っていれば、その真ん中が分かります。

本書において、最も重要だと感じた部分の一つですね。

しばしば、バランス感覚を欠いて極端な思考になってしまうことがある私には、深く刺さりました。

今自分が立っている場所は、全体から見たらどのあたりなのだろうか?

全くの対極にいる人は、どんなことを考えるだろうか?

必死になっている時ほど、周りの景色を見る余裕は無くなります。

周りをのんびり見ていたら、スピードを上げて走ることはできないからです。

けれども、思いっきり走った後は、ペースを緩めて遠くを眺めてみる。

走りながら周りを眺めることができるようになるのが理想ですが、まだまだ修行不足の私、、、。

物事の両端を意識する時間を作ることくらいは忘れずにいたいものです。

「特別」とは当たり前の積み重ね

子供の心のままに過ごす。

純粋な行為そのものに意味はありません。

これは、遊びの本質です。

意味のない行為そのものが目的なのです。

「純粋行為主義」という言葉が紹介されていますが、これも学問の本質に通ずる部分がありますね。

「自分にとっての当たり前」は何ですか?

どれくらい自分のことを知っていますか?

ほどほどにこなすことは簡単です。

けれども、その生活の中では身体性が薄まり、自分で考えることはどんどんできなくなっていくでしょう。

物事を好きになるまでは、以下のフローがあります。

①嫌いだけど努力する

②好きになって一生懸命頑張る

③過程も楽しむ(余裕がある)

①で終わってしまうのは非常にもったいないです。

初めに感じた違和感は、表層的な自分の声かもしれないからです。

例え違和感があっても、一定期間は頑張ってみる。

損切りのラインだけ決めておいて、ダメだったら撤退する。

物事に向きうとき、当たり前のレベルを意識したいものです。

まとめ

最後まで読んでくださってありがとうございます。

筆者は自身の人生を「所を得ない人生だった」と振り返っています。

自分はここにいてもいいのだろうか?」と問い続ける自体を人生の意味にしてきたのだと感じます。

「問い」の形は人それぞれ。

あなたも大切にしている「問い」はありますか?

自分の生き方を根本的に肯定できる人生を選ぼうという気持ちを奮い立たせてくれる本書。

ぜひ手に取って読んでみてください。

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