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『エピクロスの処方箋』読書メモ ― 技術を信じすぎないことと、才能を見誤らないこと

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こんにちは、よだかです。

この間、小説『エピクロスの処方箋』を読みました。物語として面白かったのはもちろんですが、今回はそれ以上に、主人公のものの見方や振る舞いに強く惹かれました。技術を磨きながらも、それ自体を過信しないこと。才能の差という現実を認めながらも、人間の価値をそこに短絡させないこと。そうした姿勢は、仮説を立てては潰すことが日常になっている今の自分にもかなり深く刺さりました。今回は、この小説を読んで考えた「技術」「才能」「フェアさ」について、読書メモとして書いてみます。

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1. この小説でいちばん印象に残った主人公の思想

『エピクロスの処方箋』を読んで、私がいちばん強く惹かれたのは、主人公・雄町哲郎の医療に対する姿勢でした。

この作品の主人公は、医療技術そのものを軽んじているわけではありません。むしろ逆で、卓越した技術を持ち、その技術が人の役に立つことも、現場で意味を持つことも、よく分かっている人物として描かれています。それでもなお、「人を本当に救うものは医療そのものではない」という感覚を持っている。その距離感が、とても印象的でした。

こういう考え方は、一歩間違えると、技術への冷笑や、仕事そのものへの諦めにも見えてしまうと思います。けれど、この主人公から感じたのはそういう態度ではありませんでした。医療を万能視しないことと、医療を雑に扱うことは全く別だ、という感覚です。技術には確かに力がある。けれど、その力には限界がある。その限界をきちんと知っているからこそ、技術を神格化しないし、過剰な期待も背負わせない。私はその立ち位置にかなり共感しました。

たぶん私がこの考え方に強く反応したのは、自分自身の感覚ともかなり重なっていたからだと思います。何かを「信頼しない」というと、普通は否定的な態度のように聞こえます。でも実際には、信頼しすぎないことによって初めて見えるものもあるはずです。それ自体にすべてを託さないからこそ、対象の限界も、使いどころも、効く範囲も、より正確に見えるようになる。そういう意味での「信頼していない」という姿勢は、むしろ誠実さに近いものなのではないかと思いました。

私は普段、アルゴリズムトレードの仮説を立てては潰す、ということをかなり当たり前にやっています。その中で何度も感じるのは、道具や手法や理論は大事だけれど、それ自体が目的ではないし、それ自体が自分を救ってくれるわけでもない、ということです。観測機も、指標も、モデルも、それぞれに役割はある。でも、それを信仰の対象にしてしまった瞬間に、むしろ現実が見えなくなることがある。

だからこそ、この主人公の姿勢が刺さりました。技術を磨くことと、技術に執着しないことは矛盾しない。むしろ、技術を過信しない人の方が、技術を技術としてまっとうに扱えるのかもしれない。『エピクロスの処方箋』を読んで最初に心を掴まれたのは、まさにその感覚でした。

2. 技術を磨きながら、技術そのものには執着しない

この小説を読んでいて面白かったのは、主人公が医療を信じていないようでいて、決して技術を捨てているわけではないところでした。

ここでいう「信じていない」は、医療を無意味だと思っているということではありません。そうではなく、医療という技術が届く範囲と、届かない範囲を切り分けている、ということなのだと思います。人の苦しみや生き方、あるいは救いと呼ばれるもの全体を、医療だけで引き受けられるわけではない。だからこそ、医療を万能のものとして扱わない。その距離の取り方に、私はかなり惹かれました。

技術に本気で向き合っている人ほど、逆にその限界も知っている、ということはあると思います。何かを少しかじった程度の段階では、その技術が何でもできるように見える。でも、深く踏み込めば踏み込むほど、「できること」と「できないこと」が見えてくる。主人公の医療観も、たぶんそういう種類のものです。外側から冷笑しているのではなく、中にいるからこそ過信しない。ここに私は強さを感じました。

そして、この姿勢は「執着しないこと」ともつながっているように思います。
技術を絶対視すると、人はそこに自分自身まで預けてしまいがちです。うまくいけば自分も肯定され、うまくいかなければ全部が崩れる。けれど、技術はあくまで技術だと捉えていれば、結果がそのまま自己価値には結びつかない。対象との距離が少しだけ開く。その距離があるからこそ、必要なら修正できるし、失敗も失敗として受け止めやすくなるのだと思います。

これは私自身の感覚ともかなり重なります。
アルゴリズムトレードでも、指標やモデルやロジックに対して、ある程度は冷静でいないとすぐにおかしくなります。自分が時間をかけて作ったものほど、つい「これであってほしい」と思ってしまう。でも、その気持ちが強くなるほど、現実よりも願望を見始める。だから本当は、技術を磨くことと同じくらい、技術に執着しすぎないことが大事になる。

私はこれまで、仮説を立てては潰すということを繰り返してきました。正直、気分の良い作業ではないです。けれど、そのたびに思うのは、仮説そのものに自分を重ねすぎると、壊れたときに事実を事実として見られなくなるということです。逆に、「これは使えるかもしれない道具の一つにすぎない」と思えているときの方が、ちゃんと検証できるし、だめなら切る判断もできる。

この小説の主人公が示していたのも、そういう態度に近いように感じました。
技術を磨くことと、技術そのものには執着しないこと。普通は矛盾して見えるこの二つが、実は両立するどころか、むしろ後者があるから前者が成り立つのかもしれません。全能視しないからこそ、必要な範囲で正確に扱える。期待を背負わせすぎないからこそ、技術の力そのものをまっすぐ見られる。私にはそれが、とても誠実なあり方に思えました。

3. 才能の有無はある、という現実をどう受け止めるか

もうひとつ、この小説で強く印象に残ったのが、主人公の才能観でした。

作中で主人公は、人は才能に左右されるし、その有無によってできることはある程度決まる、という趣旨のことを語ります。こういう言葉は、受け取り方によってはかなり冷たく見えると思います。努力を軽んじているようにも聞こえるし、人を能力で切り分けているようにも見えるからです。けれど、私にはそうは感じられませんでした。むしろそこにあったのは、現実を現実として引き受ける姿勢だったように思います。

主人公は、自分に内視鏡手術の適性があることを、妙に美化も卑下もせず受け止めています。器用さや感覚の鋭さが、そのまま医療技術の適性に結びつき、結果として医師としての評価にもつながる。それを「そういうものだ」と認識している。そこには、自分は特別だという陶酔もなければ、努力だけで誰でも同じ地点まで行けるという綺麗事もありません。ただ、持っているものがあり、その持ち物によって向いている場所と向いていない場所がある、という現実が置かれているだけです。

私はこの感覚にかなり共感しました。
人にはそれぞれ、もともとの気質や感覚の鋭さ、身体的な器用さ、ものの見方の傾向のようなものがあります。それは努力で多少伸ばすことはできても、完全に自由に作り替えられるものではない。だからこそ、まずはそこを認める必要があるのだと思います。何でも努力で覆せるという発想は、一見前向きに見えますが、現実を見誤る危うさもある。向いていない領域で無理を続けることや、自分の持ち物を無視して消耗することにつながりやすいからです。

ただ、この考え方が良いのは、才能の有無をそのまま人間の価値に結びつけていないところだと思います。
「向いていることがある」「向いていないことがある」という話と、「だから人間として偉い・偉くない」という話は本来別です。けれど現実には、その二つはすぐ混ざってしまいます。できる人は自分を必要以上に大きく見積もり、できないことにぶつかった人は自分の価値そのものまで下げてしまう。主人公の面白いところは、その混線が比較的少ないところです。才能の差はある。でもそれは、ただその人が持っている条件の一部にすぎない。その前提で、自分が何をできるのか、どう振る舞うのかを見ようとしているように思えました。

この態度には、ある種の強さが必要だとも思います。
実際、こういう哲学は、自分に一定の才能や適性がある側の人間だから保てる面もあるでしょう。できない側から見れば残酷に映ることもあるはずです。だから私は、この主人公の考え方を誰にでもそのまま当てはめられる普遍的な正しさだとは思いません。ただ、それでもなお惹かれるのは、主人公がその強さを理由に他者を雑に扱っていないからです。強者の論理を振りかざすのではなく、自分にあるものも他人にないものも、なるべく感情を足しすぎずに見ようとしている。そのフェアさが好きでした。

そしてこの感覚は、今の自分の仕事にもかなり近いです。
アルゴリズムトレードでも、向き不向きはたしかにあると思います。ある人は観測が得意で、ある人は実装が速く、ある人は執行の現実を読むのがうまい。逆に、どれだけ努力しても自分にあまり噛み合わない領域もある。そこを無視して、「頑張れば全部できる」と考えるより、自分に向いている場所と限界を見極めた方が、結果的にはずっとフェアに戦えるはずです。

才能の有無はある。
でも、それをもって人間の価値を決める必要はない。
むしろ大事なのは、与えられた持ち物を過不足なく認識して、そのうえでどこで戦うかを考えることなのだと思います。『エピクロスの処方箋』の主人公から感じたのは、そういう現実的で、それでいてどこか静かな才能観でした。

4. 強さを持ちながら、自分にも他人にもフェアでいること

この小説を読んでいて、私が主人公にいちばん好感を持ったのは、卓越した技術や才能を持ちながらも、それを振りかざす人物としては描かれていないところでした。

能力の高い人物というのは、描き方によってはかなり嫌味になりやすいと思います。自分の正しさに酔っていたり、周囲を見下していたり、あるいは逆に「わかる人にしかわからない」孤高の天才として美化されすぎたりすることも多い。けれど、『エピクロスの処方箋』の主人公には、そういう匂いがあまりないように感じました。もちろん、才能の差や現実の厳しさを見ていないわけではない。むしろかなり見ている。それでも、その現実認識をそのまま他者への侮蔑に変換していない。その距離感がとても良かったです。

前章で書いたように、主人公は「才能の有無によってできることはある程度決まる」という現実を受け入れている人物だと思います。これはかなり厳しい認識ですし、きれいごとではありません。努力だけで何でも乗り越えられる、誰もが同じように到達できる、という物語を簡単には信じていない。そういう意味では、かなり冷静で、ある種の非情さすら含んだ見方です。

けれど、この主人公の魅力は、その非情さが人間への冷酷さにそのままつながっていないところにあるように思います。
できる人はできる。できない人はできない。向いている人もいれば、向いていない人もいる。そうした差を認識しながらも、そこからすぐに「だから価値がある」「だから価値がない」という話へ飛ばない。私はここに、かなり大事なフェアさがあると感じました。

人はつい、能力と価値を混同してしまいます。
何かができる人を見ると、その人は人間としても優れているように見える。逆に、うまくできない人を見ると、その人の存在そのものまで低く見積もってしまう。これは、能力主義的な社会の中では特に起こりやすいことだと思います。けれど本来、ある領域での強さと、人間そのものの重さや尊厳は別の話のはずです。主人公はその線を、少なくとも簡単には越えない。そのことが、私にはかなり誠実に見えました。

たぶん、これは自分に対しても同じなのだと思います。
主人公は、自分に技術があることを認めています。でも、それを人格的な優位性の根拠にはしていない。自分にはできることがある、という事実は受け入れる。でもそれは、ただその人に備わっている条件のひとつでしかない。そういう受け止め方をしているように見えます。だからこそ、自分の能力を必要以上に誇張しないし、逆に失ったものや届かないものに対しても、変に劇的な物語を背負わせすぎない。その静けさが印象に残りました。

私はこの態度を、かなり「強い人のフェアさ」だと思いました。
世の中には、能力があるからこそ傲慢になる人もいれば、逆に能力があることに強く執着して壊れていく人もいます。そのどちらでもなく、自分の強さを強さとして認めながら、それに酔わず、それで他人を裁きすぎず、それでも現実から目をそらさない。このバランスは簡単なようで、実際にはかなり難しいはずです。

もちろん、こういう態度は、ある程度の実力や余裕があるからこそ成立する面もあると思います。
だからこそ、これは「誰でもこうあるべきだ」という普遍的な教訓として読むよりも、「こういう強さの持ち方もあるのだ」と受け取る方が自然なのかもしれません。実際、能力差を認めるという態度は、立場によっては残酷にも響く。それでもなお、この主人公を魅力的に感じたのは、その認識の厳しさが、他者への乱暴さや自己神格化に流れていないからでした。

この感覚は、今の自分の仕事とも少し重なります。
トレードでも研究でも、現実には向き不向きがあり、得意不得意があり、結果にも差が出ます。その現実をごまかさずに見ようとするとき、同時に気をつけないといけないのは、結果や能力をそのまま自己価値や他者評価に直結させないことだと思います。勝てる仮説を見つけられるかどうか、実装できるかどうか、継続できるかどうか。そういう差はたしかにある。けれど、それはそのまま人間の全部ではない。そうやって線を引いておかないと、現実認識そのものが歪んでしまう気がします。

『エピクロスの処方箋』の主人公を見ていて良かったのは、強さを持つ人間としての自負と、自他へのフェアさが両立していたところでした。
現実は見る。差も認める。けれど、それをもって人間を雑に扱わない。そういう人物のあり方には、単なる優しさとも、単なる厳しさとも違う魅力があるのだと思います。

5. いまの自分にこの小説が刺さった理由

『エピクロスの処方箋』がここまで自分に刺さったのは、たぶん今の自分が、技術や仮説の限界と日常的に向き合う生活をしているからだと思います。

私は普段、アルゴリズムトレードの仮説を立てては検証し、だめなら潰す、ということを繰り返しています。言葉にすると単純ですが、実際にはかなり地味で、しかも精神的に気持ちの良い作業ではありません。時間をかけて考えた仮説や、手を動かして作った仕組みが、検証してみると普通にだめだった、ということは珍しくない。むしろ、そういうことの方が多いです。そのたびに、自分が信じたいものと、実際に起きていることを切り分ける必要がある。

だからこそ、この小説の主人公の姿勢が強く響いたのだと思います。
技術を磨く。でも、技術そのものには救いを求めすぎない。
才能の差という現実を認める。でも、それをもって人間の価値を決めない。
この二つは、今の自分にとってかなり切実なテーマです。

何かを本気でやっていると、その対象に自分自身を預けたくなる瞬間があります。
この技術が完成すれば、自分は前に進める。
この仮説が当たれば、自分の見方は正しかったと言える。
この研究が形になれば、自分は報われる。
そういう感覚は、たぶん誰にでもあると思います。私にもある。けれど、その結びつきが強くなりすぎるほど、現実を見る目は曇っていきます。壊れた仮説を壊れたものとして認められなくなるし、うまくいかなかったときに必要以上に自分まで否定してしまう。

その意味で、この小説から受け取ったものはかなり大きかったです。
技術には限界がある。
人にも向き不向きがある。
それでも、だから無意味なのではなく、その限界や差を前提として、なお自分のやることを引き受ける。
私はこのあり方に、かなり救われる感じがありました。

特に良かったのは、そこに過剰な自己正当化がないところです。
「技術では救えない」と言うときに、では別の何かを絶対視するわけでもない。
「才能の差はある」と言うときに、だから自分は特別だと酔うわけでもない。
何かを強く信じすぎることで安心を作るのではなく、むしろ世界の不完全さや人間の限界を引き受けながら立っている。その感じが、とても良かった。

今の自分も、たぶん似た場所にいます。
トレードの世界では、仮説は潰れるし、構造があると思ったものが実際には取れないこともある。観測して、検証して、現実を見て、白黒をつける。その繰り返しの中では、何かを過信しないことがとても大事になります。モデルも、観測機も、ロジックも、どれも重要です。でも、それらは万能ではないし、自分の存在を保証してくれるものでもない。だからこそ、道具として丁寧に扱う必要があるし、だめなら切る必要もある。

そう考えると、この小説が刺さった理由はかなりはっきりしています。
私は今、技術を信仰せずに技術を磨くこと、そして現実の差や限界を見ながらも、自他に対してなるべくフェアでいようとすることを、大事にしながら生きているからです。『エピクロスの処方箋』の主人公は、その姿勢をかなり澄んだ形で見せてくれたように思います。

物語として面白かった、というだけではなく、今の自分の仕事やものの見方と自然につながる感覚があった。
それが、この小説を単なる読後感で終わらせず、こうして言葉にしておきたくなったいちばんの理由です。

本書の内容が気になった方は、ぜひ手に取ってみてください。
さまざまな気づきを与えてくれる良著だと思います。
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